喜多方市の文化財 -043/055page

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無為庵如黙(むいあんにょもく)の遺品

 如黙は、九州肥前国(現佐賀・長崎県) の人。17歳の時、 父母に死別して京都に出て勉学し、30歳の明暦2年 (1656)、会津にきて学者文人らと親交を深める。

 寛文4年(1664)、稽古堂の堂主に招かれ、22年間士 庶の教育に力を傾注した。藩主正之も彼の学識を愛し、温かく 知遇した。しかし貞享(じょうきょう)2年(1685)、突然、罪によって 真木村(現慶徳町) に流され、元禄4年(1691)11月17日没する。如黙は、儒学はもとより老荘の学を極め、とくに詩文和歌に長じ、会津の教育と文化の向上に大きな貢献をした。

 6年間の流謫(るたく)生活の中で書きつづった「謫居(たっきょ)随筆」、「漢和五十韻」「真木村略記」、「配所の月」、「瓶菊之詩」など如黙の学識と人柄を示すものや愛用の茶器が遺されている。

慶徳町 高畑五一郎氏所蔵

無為庵如黙(むいあんにょもく)の遺品

塚原壇・塚原館跡

 菅原町の西、県道喜多方西会津線と緑道公園の間に位置し、 円丘状の塚の上に「塚原壇」と刻んだ石碑がたっている。

 この壇は、地頭富田淡路守祺祐の墓(応永11年没、1404年)といわれている。また、この塚原壇は、長源壇ともいわれているが、これは塚が「ちょう」とも読めることから、長源と置き換えたものであろう。塚原館跡は、菅原町にあって土手 や堀の一部に当時の遺構をしのばせ、当時は本丸、二の丸、三 の丸があり、前述富田祺祐の築いたものといい、天正年間(1573〜1591) のころは、富田将監の居館であった。

所 在 地 喜多方  菅原町

塚原壇

塚原館跡


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