カラムシ資料集その1-005/028page

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苧神社」となり江戸期は伊達藩主が崇敬し立派な社殿が創建されるに至った。図42は昭和45年に再建されたもので、山中にあって実に堂々たる社殿である。毎年5月1日〜3日に例大祭が行われ、文化4年(1807)より伝承されている榊流青苧神楽が奉納される。古来から「中風退除・海上安全」の信仰があったとされ、信者達は日常の信仰対象として神号を刻んだ石碑や堂宇を身近に建立し、構中を組織してしばしば本社に参拝した。この神社の信仰圏は東北地方から栃木県、千葉県にまで及んでいる。社殿には世相を反映し、受験生の合格祈願のための折鶴が大量に奉納されて現代の多元的な信仰を物語っている。
山形県内にも「青苧信仰」を表わす石碑・堂宇があるので、知りうる範囲で記す。
○山形県鈴川町「青苧宮」(文化6年)
○寒河江市三泉「青苧三光宮」(文化6年)
○米沢市三沢「青苧権現」2基(年号不詳)
○高畠町亀岡「青苧権現」(同上)
○南陽市宮内町「青苧権現」(同上)
○河北町岩木「青苧権現」(同上)
○中山町達磨寺「青苧岩戸三光大権現」(同上)
山形市鈴川町の「青苧宮」は荒井八郎家の一隅にあり、石の台座にすえられた高さ1.4mの石碑で今も近所の人の献花がある。かつて1月21日に近所の人々が荒井家に集まって青苧講を営み、年一回本社に参拝し、近年まで続いていたという。このほか山形市内には2基の石碑があるといい、岩手県や福島県にも多くの石碑などが存在すると聞いている。山形県内ではこれらはほとんど「中風の神」の信仰を集めている。
果たして、この青苧信仰の実体は何なのか、なぜ「中風の神」なのか、そして何よりも本稿に関連して「青麻」は「青苧」のことであるのかが関心事である。この青苧神社は本来穂積なる人物が三光(三神)を祀ったことに由来するが、地名、社名、社紋のいずれにも「麻」が付けられていることは、穂積氏の「麻」(青苧とも考えられる)の栽培伝授に対する人々の感謝の念がそうさせたのではないかと思われる。したがって、この神社は三神を祀るとともに穂積氏への崇拝の側面もかかえていて、「麻」の豊作祈願及び収穫感謝のための参拝所としての機能を果たしてきた時期があったのではないかと考えられる。それでは「麻」の信仰以上に「中風防除」の信仰が強まってくるのはいつ頃か、また何故なのか、については本稿では十分な考察に及ばなかった。それは穂積氏自身に関連してのことか、または、三神に併祀されている伊豆伎老翁(堂陸坊海尊のこと)にまつわることなのか、それとも「麻」の成長力と人間の健康にかかわることなのか、いろいろ想像しうるが確証がない。さらに「青麻」が青苧なのか大麻であるのか、宮城県の歴史的な栽培状況を示す正確な史料をもとに今後検討していかなければならない。
●植生に関すること
和漢三才図會 寺島良安編(正徳年間刊行) 一部抜粋
青苧和名加良無之 俗云真苧
人剥取其皮以竹刮其表厚虞自脱得裏如筋者煮之用絹布(中略)
苅者長三四尺去枝葉用莖河水取出覆薦莚蒸之故名虚蒸剥■皮採肌皮青白色者以竹箆 刮浄晒乾用之(後略)
「越後縮布を織る信濃の産最も■弾く、綱縄に為り錦線に劣らず、故に鉄引と名づく」
●栽培に関すること
会津風土記(寛文6年・1666年) 一部抜粋
1)「青苧一夏土用中はぎ引仕、勿論其節越国より買人参粗払申候」(金山谷・野尻組・大谷組)
2)「からむし作候様に右御同人様より被仰付候付、たねもとめ次第段々植中候得ハえき二罷成候」(楢原郷)

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