月舘町伝承民話集 -061/200page

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たたり田について

 月舘の古語老内から古屋の入の方へ行く道端にたたり田と言われているところがあります。今から380年程昔のことです。月見館(月山城)に須田伯耆守親重という人が、この地方を治めていました。この人 は会津黒川城主上杉景勝公の重臣で、兄の満重は梁川城で、弟の親重はこの月見館に在って、小手郷地方を 治めていたのです。ところがこの地方は、もと伊達氏の領分で代々伊達氏が領していたものでしたから伊達 輝宗の親子は、何とかしてもとの領地を取り返したいと思い、大軍を率いて幾度も戦をしかけて来るのでし た。
時に慶長の始めころでした。伊達の軍勢何千騎が川俣城を攻める前に、この月見館を落とそうとして攻 めて来ました。親重は部下の兵を指揮して群がる敵の大軍を迎え撃ちましたが、到底敵の大軍にかないませ ん。ちょうどその時、親重の奥方がみごもって居りましたので、親重は側に仕えていた女たちに奥方を守ら せ安全な場所に立退くように命じました。
味方はだんだん死傷者がふえて来ました。落城は目の前にせまっ ていました。奥方は涙ながらに夫と別れ、二三人の側女を連れて手渡越から手渡小島の方へ落ちのびようと 細布川のほとりにたどり着いた時は、はや西の夕日が沈もうとしていました。そして月見館の方をふり返っ って見ると、敵と味方が入り乱れて最後の決戦がはげしくなったのか、ときの声がさかんにきこえるばかり でした。奥方は道ばたにある田んぼの石に腰をおろして身を休ませたところ、にわかに産気づき元気な男の 赤ちゃんが生まれました。田の石の上には、まっかな血が流れました。側に仕えていた女たちは一安心して 喜びましたが、負けいくさの方が気がかりでどうすることも出来ない有様でした。やがて奥方たちは敵の迫


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