てんえいむら見て歩き トラベルブック -018/064page

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民話 1  沖内

かっぱの詫証文(わびしょうもん)

 沖内集落の鎮守赤津(あかつ)神社はその昔、不 開(あかず)神社と呼ばれ、その地中深 くには城主馬場八郎左ェ門がかっばから 預かったわび証文が埋められていると伝 えられている。

 天正の昔、八郎左ェ門は釈迦堂川の濁(だく) 流を愛馬大月(あいばおおつき)に乗って渡り、女郎寺(じょろうじ)へや って来た。八郎左ェ門はここの住職と碁 を楽しみ、帰途につくころにはすっかり 日が沈んでいた。帰途についた八郎左ェ 門が夕闇の中、大月にまたがり釈迦堂川 の濁流を進んでいくと、川の中ほどで馬 がぴたりと動かなくなった。どんなに叱 責(しっせき)しようとも一歩も進まず、さては棒立 ちになって騒ぐありさま。さすが剛勇を 誇る八郎左ェ門も一時は途方にくれた が、鞭をふるってようやく岸にたどり いた。しかし、馬はなおも荒れ狂い、 よいよ不審に思い馬の後部を見れば、怪 (あや)しげな動物が馬の尻尾(しっぽ)につかまっていた。 怒った八郎左ェ門が逃げる動物を引っ捕 まえ「汝(なんじ)かっぱめ!」と大刀を抜いて手 討ちにしようとしたところ、かっぱは悲 しげな声で「私には妻子や大勢の子分が おり、お手討ちになるならば主を失い明 日からは路頭(ろとう)に迷ってしまう」と、再三 わびを入れた。涙ながらの謝罪に八郎左 ェ門も哀れに思い、今後人畜に危害はも ちろんのこと、一切水難のないよう守る ことを誓(ちか)わせ、これを偏平石(へんぺいいし)に記しわび 証文として差し出させ許してやったとい う。八郎左ェ門はこれを城の東方の小高 い丘に埋め、水難除(すいなんよ)けの祈願をした。

 ところが、それから間もなくのこと。 ある真夜中に異様な物音が聞こえてき た。村中のニワトリが一斉(いっせい)に鳴き叫び、 村は不吉(ふきつ)な予感に包まれたが、異様な物 音は長くは続かず、また元の静かな夜に 戻った。城中では、夜討ちの敵と思い、 八郎左ェ門自ら出陣の手配に及んだが敵 の姿はいっこうに見えず。もしや、かっ ぱのわび証文に変事があったのではと調 べさせたところ、わび証文は無事であっ たが、土は掘り返されひどいありさまで あった。かっぱがわび証文を取り返そう と大群をなし押しかけたが、ニワトリの 声に夜明けの時と思い込み、目的を果た さずに引き上げたのだった。八郎左ェ門 はその後を案じ、わび証文を石棺(せきかん)に納め 地中深く埋めなおし、その上に祠(ほこら)を建て、 永久に石棺のフタを開くべからずと定 め、社名を不開(あかず)神社とし、水難除けの神 として祀ったという。この不開神社がい つの頃から赤津と変わったのかはさだか ではないが、現在では社殿は大きく木造 に立て替えられている。不開神社を祀っ て以来、釈迦堂川に水難の被害は見られ ず、かっぱのわび証文は今なお深く信じ られている。

(稿者 石井寅之助)

「天栄村の民話と伝説」から

かっぱの詫証文


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