わたしたちの石川町-073/127page
「鉄道がしかれたころ,日本はせんそうをしていて,たくさんの兵隊が石川駅から行きました。」
「1941年(昭和16年)から,せんそうがはげしくなると,東京から多くの小学生が集団そかいで石川町にやってきました。」
「1945年(昭和20年)には,石川町にアメリカ軍のひこうきが来て,ばくだんをおとしました。」
そのころのことをもっと知りたいと思い,おじいさんに聞いてみることにしました。
昭和初期の田畑小
そかい児童
おじいさんの話
わたしの中学校時代(今の高校)は,もう学校では勉強できなかった。きんろう動員で学生たちは神奈川県や日立の工場で汗まみれになって働いたんだ。卒業式も石川町ではなく,東京の戦車をつくる工場でやったよ。地元にいる学生は,石川山の石ほりや沢田の飛行場づくりにかりだされていたよ。
戦争がはげしくなると,石川町にもB29が来て,児童を防空壕にいれるとき,小学校の先生が命を落としたこともあったよ。東京から疎開してきた小学生もたくさんいたよ。そのころのわたしたちの一番の関心ごとは,食べることだった。「しみもち」「ほしいも」は大変なごちそうだった。
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