わたしたちの平田村 - 041/107page

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6.かわってきた村

 わたしたちの村の人びとの生活や土地のようすが、どのようにかわってきたか、しゃしんを見たり、家の人に聞いたりして、しらべましょう。

(1) 学校生活のうつりかわり

 今から110年ほどまえ、今の永田小学校が福田寺というお寺にひらかれました。つづいて、蓬田小学校、小平小学校のじゅんにできました。そのころは、新しく学校をたてるとなると、たいへんなお金がかかるため、たいていのばあい、学校は、お寺や木きな家をかりて使っていたのだそうです。

@ わたしたちの校舎(こうしゃ)のうつりかわり

 ○ 小平小学校のうつりかわり(3年、山本君が調べたもの)

 学校が生れたころは、今の大字が村でした。西山村、小平村、中倉村、駒形村の人たちが小平小学校に通いました。上北方村、下北方村の人々は、今のいわき市の上三坂小学校の分校だった北方分教場に通いました。また、東山村は、永田村の子どもたちと永田小学校に通ったのです。

 それから26年後(明治32年)に北方小学校がなくなり、今の学校のあるところに小平小学校ができました。子どもの数は、335人でした。

 3年あとの9月28日(明治35年)大変強い風がふき、村の人々は多くのひがいを受けました。そのなかでも、とくに、新しくできたばかりの小平小学校がおしつぶされてしまったのは、大きなふこうでした。村の人々は、がっかりしましたが、村長をしたことのある吉田喜左エ門さんをはじめ、村の人々の全部がひとかたまりとなって、もういちど学校をたてなおすことに努力したため、次の年には、また、新しい学校ができ上がったのです。(小平小発行「百年の歩み」中の沢村氏の祝詞より)

 小平小学校は、その後、何回か名前がかわり、戦争(第2次世界大戦)が終わってから、石川郡平田村立小平小学校になったのです。子どもの数は、840人もいました。

 昭和26年9月には、学校放送のせつびが入り、学級で放送が聞けるようになりました。また、昭和29年の7月には、西山に分校ができました。学校では、そのころ、水がたりなくて、飲み水にもこまっていましたが、昭和35年の2月には、近くの山から水をひいてくることにせいこうし、水不足もなくなりました。39年には、鉄こつの中校舎ができあがりました。つづいて44年には、プールができました。49年には、今の校舎が、53年には、体育館ができたのです。


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