わたしたちの平田村 - 089/107page
―おじさんの話―
開たく当時に書きのこされたものを見ると、その当時の入植者の苦労と努力が、目に見えるようです。
入植きぼう者は21戸あったが、その後入植しなかったり、入植後、この地を去ってしまった人々もいたそうです。それで、一時残った戸数は、9戸になってしまったこともあるそうです。その後しだいに入植者がふえてきて、現在にいたりました。
開こんのための機械など、もちろんありませんでした。機械どころか、土を運ぶ一輪車すらなかったのです。夜なべになわをもじり、「もっこ」を作ったりもしました。もっこに土を乗せ、かついで運んだのです。 その後、山から松を切ってきて、それを輪切にして木でわくを作り、一輪車を作って、土を運びました。
土をたがやすのにも、とうぐわ一丁で、一くわ、一くわ、土をほりおこしたのです。
こうして、手作業で土地を開いてきたのです。
今から35年ほど前、わたしが育ったころは、まだ電気もひかれておらず、ランプを使っていました。「手ランプ」という暗いあかりの中で、たばこのしなどの仕事をしたものです。石油さえ、なかなか手に入らないため、古い松の根をほって、それを細かくさいてもやし、明かりをとっていたことさえありました。
電気を入れるには、たいへんなお金がかかります。
そこで、みんなで力を合わせて、農業協同組合からお金をかりて、はたらきかけ、とうとう電気がついた時には「こんなに明るくて、もったいない。」となみだを流したお年よりも少なくありませんでした。食べ物も、たいへんそまつなものでした。よくがまんして働いたものだと、つくづく思います。
毎年10月3日には、開たく記念日として、ほこらにおみきをあげ、神にかんしゃし、家内安全と五穀(ごこく)ほうじょうを部落民ごぞって祈るならわしがあり、現在でも続いています。