わたしたちのむら おもてごう - 091/102page
9 きょう土を開く
むかしの人々は、表郷村をよくするために、どんな努力やくふうをしてきたでしょうか。
1 水不足をなくす努力 〜犬神ダムをつくる〜(1) 水あらそいの村
表郷村は、昭和30年に古関(こせき)村(中野(なかの)・内松(ないまつ)・番沢(ばんぎわ)・社田(やしろだ)・旗(はた)宿(じゅく)・関辺(せきべ)、金山(かねやま)村、(金山・梁森(やなもり)・高木(たかぎ)・三森(みもり)・下羽原(しもはばら))、社(やしろ)村(小松(こまつ)・八幡(やわた)・中寺(なかでら)・堀之内(ほりのうち)・河東田(かとうだ)・探渡戸(ふかあど))の3つの村が一しょになってできました。むかしから農業(のうぎょう)がさかんにおこなわれており、中でも、米作りが一番さかんでした。
水田に引く水は、社(やしろ)川やその支流(しりゅう)の藤(ふじ)の川などから引かれていましたが、それだけでは、水の量(りょう)がたりませんでした。
そこで、南湖(なんこ)や大池などのため池をつくり、水をためて、田に引いていました。さらに地下水なども利用(りよう)していました。
しかし、それでも、十分とはいえず、いつも水不足になやまされていました。
農家の人たちは、自分の田に水を引くために、近くの田の持ちぬしとけんかまでして、ひっしになって、水を引いていました。このように、むかしから、水ぶそくになやみ、水あらそいがたえませんでした。
また、社(やしろ)川はあばれ川で、大水が出るだびに、川すじがかわり
むかしは、ひでりのときが一番こまりました。ため池には水がたまらないし、社川もあまり水が流れていないので、田に少ししか水がひけず、稲(いね)がよく育ちませんでした。少ない水を自分の田に少しでも多くひきたいと思い、夜ねないで水の番をした人もいました。水はみんなのものですが、時々、やくそくを守らず、水のことでけんかをする人もでるほどでした。