社会科学習資料 第3・4学年 わたしたちの村 ひがし - 057/106page

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@ むかしの道路(どうろ)

 左の絵(え)ちずは江戸時代(えどじだい)のころの釜子じんやです。このころの釜子地方(ちほう)は、えちご(新潟県(にいがたけん))高田(たかだ)はんの分領(ぶんりょう)だったのです。

 絵(え)ちずをみてわかるように、今(いま)の役場(やくば)前や大黒町(だいこくまち)には家は1けんもみあたりません。

 北から南に通っている道はいばらぎ街道(かいどう)、またひたち太田街道(おおたかいどう)ともいいました。

 また絵(え)ちずにある白川道(しらかわみち)もいばらぎ街道(かいどう)とよんでいました。

 「釜子道中記(どうちゅうき)」によると、釜子じんやのあったころ高田はんし(ぶし)のおぐらしげひろという人が、遠(とお)くえちごの高田からおとも2人をつれ、かごにのってこの白川道を通ってじんやに来(き)ています。

 北から南に通っているいばらぎ街道(かいどう)は、矢吹(やぶき)の中畑新田(なかはたしんでん)で奥州街道(おうしゅうかいどう)からたなくら道に分(わ)かれ、中畑宿(じゅく)を通ってなめずで馬をつぎ、川原田宿(かわらだじゅく)をすぎてあぶくま川をわたったのです。あぶくま川にはいま常陸(ひたち)橋がかかっていますが、このころは舟(ふね)でわたったと思われ、刈(かり)しき坂(ざか)にあるかんのんどうの近くは、つじがはらとよばれて渡船場(とせんば)があったそうです。

 こうしてそのころの東村に入ったいばらぎ街道(かいどう)は、北町のところで東の方にまわり道をして釜子宿(かまこじゅく)に入っています。これは山があったからと考えられます。ついで若(わか)ぐり新田(しんでん)村をすぎ、伝馬宿場(でんまじゅくば)のつつみから棚(たな)くら城下(じょうか)へ出たのです。このいばらぎ街道(かいどう)は、このころ会津(あいづ)のとのさまのさんきんこうたいや、米(こめ)を江戸(えど)へはこぶ大切な道路だったのです。


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