泉崎の文化財-017/27page

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伊賀館跡(いがだてあと)
所在地/泉崎村大字関和久字関和神社
 源頼朝の奥州征伐に功績のあった結城朝光は1190年白河地方を所領しました。結城一族が白河に下向したのは1290年頃と言われます。以降300年、白河地方は結城の支配下にありました。
 大宇関和久字関和神社の丘陵は、結城の家臣熊田伊賀の居住した伊賀館跡と言い伝えられております。
 伊賀館はいつ頃出来たのか年月が定かでありません。天正17年(1589年)に至り、結城義親が伊達正宗の支配下になりますと、常陸の佐竹に備えるため砦を強固にし、兵を配備して、関和久城となりました。そして河東田上総が警固にあたったとみられますが、翌天正18年秀吉の天下統一により、結城義親は所領を没収されて廃城となりました。
 城の構造は主郭と二の郭よりなり、主郭は、丘陵中央の最頂部に土塁をめぐらし、南東部はます形の大手口となって、その南側には東西に走る幅5mの空堀がありました。関和神社の通路などのため一部破壊されたが、土塁・空堀は今も形を留めています。また北側には搦め手口があり、大手口と同じような空堀かありましたが、現在はありません。
 主郭内は、東西・南北ともに90mの広さで、今は関和神社の境内となっております。
 主郭より100m程南に離れると、ほぼ主部と同じ広さの二の郭があります。北部が高く南部が低いゆるやかに傾斜した地形で、東・南・西の三方に空堀がありましたが、今は住宅地となり、堀は東側を残して埋まってしまいました。
西方より伊賀館跡を望む
西方より伊賀館跡を望む
主郭跡の関和神社
主郭跡の関和神社
大手口附近の空堀
大手口附近の空堀
搦目手口附近の土塁
搦目手口附近の土塁

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