矢祭町合併40周年記念誌 - 022/026page

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沿革・位置と地勢・気象

沿革・位置と地勢・気象

町の沿革

 当地方は古代東夷と呼ばれた後、陸奥の国と称されてきたが、奈良朝時代養老年間に、石城、石背の国が置かれた時、石背の国に属し、白川郡に人れられ高野郷といわれるようになった。その後の所属配置については幾多の変遷があり、徳川初期には棚倉藩あるいは幕府直轄領として代官の支配を受けた。享保14年(1729)からは、幕府直轄御料に入れられ幕末には金沢、山下、関岡の南部等が、平領に組人れられたこともあるが、そのまま明治維新をむかえた。

 明治4年の廃藩置県の際、棚倉県に属し、間もなく磐前県となり明治9年福島県に編人された。明治12年1月郡区改正により東白川郡と称し棚倉に郡役所が設置、同年2月郡内に27の戸長役場が配置された。明治16年2月戸長役場改正により7戸長役場となったが、本町関係分は、東舘村外9ヶ村(中石井、下石井、戸塚、金沢、宝坂、小田川、下関河内、上関河内、大)と、植田村外8ヶ村のうち5ヶ村(関岡、内川、茗荷、高野、山下)である。

 明治22年3月25日町村制法の施行により本郡は1町12ヶ村となり、これが60有余年続いた。その後、町村合併促進法施行に基づき、昭和30年3月31日豊里村と高城村南部、(大字関岡、内川、茗荷)が合併し矢祭村として発足、その後昭和32年1月10日塙町に合併した旧石井村三地区(大字中.石井、下石井、戸塚)が矢祭村に編人された。この間塙町との合併問題があったが昭和35年11月に解決、昭和38年1月1日町制を施行、矢祭町として発足し、現在に至っている。

位置と地勢

 本町は福島県の最南端に位置し町の中心地は東経140度25分、北緯36度52分、標高170メートル、区域は東西21.5キロメートル、南北15.5キロメートルで面積は118.91平方キロメートルを有している。主要都市との距離は東に塙町を経ていわき市へ90キロメートル、西に馬頭町(栃木県)を経て宇都宮市82キロメートル、南に大子町(茨城県)を経て水戸市へ74キロメートル、里美村(茨城県)を経て日立市へ48キロメートル、北に棚倉町を経て白河市へ42キロメートル、矢吹町を経て郡山市へ70キロメートルで関東地方につきでた町である。

 地勢は東に阿武隈山系、西は八溝山系にはさまれた町で、両山系が南北にびょう立し、これら山岳が分水嶺をなし中央を貫流する久慈川に合流、奥久慈県立自然公園矢祭山の清流の源となり太平洋にそそいでいる。この久慈川流域に広がる標高115〜200メートルの平坦地域と阿武隈山系及び八溝山系に属する標高400〜650メートルの山間地域に大別される。

 鉄道は水郡線が南北に走りこれに並行して町道118号線が走っている。さらに国道349号線が阿武隈山系を縦貫している。

気  象

 本町は表日本型気候をしめしているため気温は比較的温暖で積雪はきわめて少なく山間地域でも根雪はない。平均気温は12℃内外で降雨量は年間1,200〜1,500oで比較的多く林木の生育、農作物の生育には好条件である。
 また、山間地域においては5月中旬頃まで山岳気象の影響で霜害を受けやすい地域となっている。


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矢祭町の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。