体験学習の手引き -023/036page
く揃っています。城の石垣の石は見える面よりも奥に長く、崩れないように積まれています。一 番大きい石は椿坂(つばきざか)をあがった太鼓門(たいこもん)わきの遊女石(ゆうじょいし)で、この近くには大石が数多くあります。石垣 をジグザグに作った横失掛(よこやが)かりが本丸の南、月見櫓の西にあって、登って来る敵を射撃しやすく しています。また北出丸、西出丸の門には、階段状の大腰掛を築いて防備を堅くしました。
周囲の石垣の上には塀をめぐらし、要所に石垣の張出を作り、その上に櫓を建てました。物見 や防備、攻撃用の外、茶壷櫓(ちゃつぼやぐら)・お弓櫓(ゆみやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)・千飯櫓(ほしいやぐら)などにはその名の通りの役目もありまし た。そして本丸・帯郭・北出丸・西出丸・二の丸の入口には頑丈(がんじょう)な門がありました。現在は鉄門 が復元されています。
明成は馬出を大きくし守りの堅い出丸(でまる)に改修しました。まず北出丸に大手門を造って甲賀町(こうがまち)通 りから入るようにし東と西に大腰掛・桝形(ますがた)・城門を造りました。西出丸の門も似たものですが、 西の長い石垣は北半分を張り出させています。二の丸にも桝形・城門があり、北側の伏兵郭(ふくへいかく)(梨 子園(なしえん))があります。ここは味方を隠しておいて二の丸に入った敵を攻撃したり、対岸の北出丸の 大手門へ進む敵を攻めることができました。明成は蒲生の城を見違えるほど守りが堅く、美しい 立派な近世城郭(じょうかく)に大改修しました。
近世の城は関ヶ原の戦い(1600)から元和の一国一城令(1615)までの間に多く造られ、築城技術 も発達しました。鶴ヶ城はそれらの技術を踏まえて造られた新しい城であり、関東・東北では江 戸城に次ぐ城であり、他にこれだけの石垣と天守閣をもつ城はありません。会津は、当時人口が 多く、生産力も高かったからでしょう。会津の農民たちは、僅か50年の間に蒲生の城、上杉景勝(うえすぎかげかつ) の神指城、(こうざしじょう)、加藤明成(あきなり)の大改修と三つの大きな城を造りました。大変な労苦の連続だったと思いま すが、またその底力をしのぶことができます。外様(とざま)大名の明成は将軍が発令した武家諸法度(ぶけしょはっと)の城 の改築の許可制、新築の禁止のこと、それを無視してつぶされた大名のことをよく知っていたは ずですが、幕府の許可も受けずに改修しました。明成はこのことと家臣堀主水(ほりもんど)との争いなどで40 万石を返上します。新しい城には1、2年入ったでしょうか。幕府は出来上がるのを黙って見てい て3代将軍家光の弟の保科正之(ほしなまさゆき)を鶴ヶ城 の城主にしました。寛永20年(1643)のこ とです。
鶴ヶ城はそれから225年後の戊辰戦争(ぼしんせんそう) で群がる西軍と火砲(かほう)に攻撃されて籠城(ろうじょう)1 ヶ月、城内には一人の敵兵も入れません でしたが開城しました。明治7年に取り 壊され、荒城になっていましたが、昭和 40年に明成が造った城をもとに復元され ました。市内に移築されていた茶室麟閣(りんかく) は平成2年に元の位置に復元されました。 加藤明成が40万石をかけて造らなかった