体験学習の手引き-001/033page

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会津の風土と歴史

 会津は四方を山に囲まれた地域です。その山は東の奥羽山脈、西の越後山脈、南の帝釈山脈、北の吾妻山から飯豊山に連なる山地帯です。これらの山地の雨水は、阿賀野川に集まり西流して日本海へ注ぎます。会津の大部分はこの阿賀野川の流域範囲内にあります。会津盆地は会津全体の中央北よりにあり、会津若松市(標高218m)は盆地の東南に位置しています。
 山は古くは信仰の対象とされ、また人々に用材・新炭その他多くの山の産物を与えてきましたが、会津には130余りの峠があり、他の地域との交流には山を越えねばならず、交通の障害になりました。山地を源とする川の水は清浄で豊かであり、県内の他地域や他県に分水しています。
 会津盆地は、夏は気温が高く、冬は北西季節風が強く積雪もあるので寒さが厳しい地域です。この土地と気象が会津の人々に豊かな生活を展開させる一方、また規制してきました。
 会津若松市は、東は猪苗代湖の西岸から、西は会津盆地を北流する阿賀川(大川)の間に位置し、市街地は背灸山地から流れる湯川と不動川の複合扇状地の上に作られています。
 ここの歴史は古く、市内からは旧石器が発掘されており、縄文・弥生時代を経て、4世紀には堂ヶ作山古墳、続いて大塚山古墳が作られました。このころ大和政権下に入り、その後東北の要地としての役割を果たしてきました。奈良時代には条里制と推定される遺構や「会津嶺の国をさ遠みあはなはば、しぬびにせもと紐結ばさね」の歌が万葉集にあるのは、次第に中央の政権下で開発が進められていることを物語っています。
 平安時代の初期、僧徳一によって磐梯町に恵日寺が開かれ、さらに湯川村の勝常寺には薬師像などこのころの仏像がたくさん残されており、会津に仏教文化が栄えたことが分かります。 武士の勢力が強くなり、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討った戦いの手柄により、会津は芦名氏などに与えられました。室町時代になり芦名直盛が会津に入り、至徳元年(1384)鶴ヶ城の所に小高木城を作ったといわれています。その子孫は他の武士たちを抑えて勢力を強くし、芦名盛氏のときには東北でも強い戦国大名になりましたが、その後、伊達政宗に攻められて天正17年(1589)磐梯山麓の磨上原の戦いで敗れ、会津の中世を支配した芦名氏は滅びました。
 当時黒川と呼ばれていた若松に入った伊達政宗は、まもなく豊臣秀吉の奥州仕置によって会津を取り上げられ、天正18年蒲生氏郷が領主(42万石後に92万石)になりました。氏郷は町の名黒川を若松と改め、天守閣をもつ鶴ヶ城や町割りをして城下町を作りました。また太閤検地をするなど領内の政治を整え、漆器などの産業を興しました。その後に越後から上杉景勝(120万石)が入り、会津とその周りの地方を支配しました。景勝は石田三成と組んで徳川家康を攻めようとして神指城を築きますが、関ヶ原の戦いに敗れたので会津を取り上げられ、その後に蒲生秀行(氏郷の子60万石)が入りました。子の忠郷の死亡で、会津には加藤嘉明(40万石)が入り、その子明成は大地震で破損した鶴ヶ城を大改修しましたが、政治が乱れ40万石を返上しました。
 寛永20年(1643)穂川秀忠の子、三代将軍家光の弟保科正之(23万石)が藩主になりました。朱

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