わたしたちのきょう土河東町-058/104page

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(3) 河東第三小学校
【むかしの学校(100年ぐらい前)】
1873年(明治6年)に、大田原の宝勝寺に大和田小学校としてはじめての学校ができました。このとき、先生は3人でした。イスはなくて正座をして学習をしていたようです。1875年(明治8年)に大田原小学校と名前を変えました。児童数は88人で、先生は2人でした。このころのテストはきびしくて、悪い人は上の学年にいけませんでした。
1890年(明治23年)に堂島尋常小学校になり、このころには運動会や遠足、修学旅行も行われていました。教室は5つでした。でも、半分くらいの人しか学校に行っていませんでした。その後、3つの学校の中では1番児童数が多かったときもありました。
大和田宝勝寺
▲大和田宝勝寺
【おじいさん、おばあさんが子どものころ(80〜50年くらい前)】
校舎が増築、改築された1913年(大正2年)ごろの堂島尋常高等小学校は、児童数が約500人、先生は12人でした。ほとんどの児童が学校に通うようになりましたが、休む人も多かったようです。
体育館(この当時は屋内体操場と呼ばれていた)ができたのは1920年(大正9年)で、校庭が広くなり、ピアノが学校に入ったのは1937年(昭和12年)のことでした。
1941年(昭和16年)には、堂島村国民学校と名前が変わりました。まだ、プールもなく、校歌もありませんでした。1947年(昭和22年)に学校の制度がかわり、堂島小学校となりました。

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