喜多方市勢要覧 -009/026page
The Roman of Kitakata
風に揺れる緑の木立を後ろ に、5列に並んだ44本の柱が支える吹き抜け の拝殿。荘厳なたたずまいの熊野 神社は、会津屈指の古寺である。
社伝「新宮雑葉記」によると、 前九年の役で源頼義が陸奥征討に 赴いたとき、その武運を祈って天 喜3年(1055)、紀州熊野から 現在の河沼郡河東村熊野堂に勧請 したのが始まりと伝えられる。そ の後、前九年の役の際に、父と共に 陸奥征討に赴いていた源義家が、 後三年の役で再びこの地を訪れ、 小松村(のちに新宮と改めた) に 移すように命じ、4年間をかけて、 寛治3年(1089)に完成した。
新宮熊野神社は、最盛期には3百余りの末社を持ち、多数の衆徒、 百余人の神識が常住し、東北にお ける熊野の威勢を、全国に知らし めたと伝えられる。源頼朝の時代 には、社領十万八千刈を給され、 2百余町に近い領田を持っていた が、佐原十郎義連の会津就封によ り、社寺領の没収を 余儀なくされた。そ の後、新宮氏が芦名 氏に討たれてからは、 滅亡への道をたどり 慶長16年(1611) の大地震で、本 殿を残してすべての建物が倒壊してしま う。しかし、慶長19年(1614) に 旧材を用いて一回り小さな長床 (拝殿)を再建し、江戸時代に入っ てからは、塩川以北の諸組の代表 が参列し、現在へと引き継がれた。
新宮熊野神社には、数多くの文 化財があるが、その中でも「長床(ながとこ)」 は、昭和38年に国の重要文化 財に指定され、昭和49年から 4年間の歳月と、約1億4千万円 の経費をかけて、文化庁の手によ って解体修復が行われた。長床は 新宮熊野神社の拝殿で、九間(27.27メートル) 四間(12.12メートル) の一重軒の寄棟造り。各柱の上には、平三斗(ひらみつど)の組物 が置かれ、中備(なかぞなえ)には 間斗塚(けんとづか)を用いてい る。庇の天井は化粧垂が美しく並べられ、 身舎(もや)の天井は格天井 で、大きな上長押と 下長押が取り付けら れている。四方が吹 き抜けのために、44本の太い柱が林 立する様が見通され、平安の面影 を今に伝えている。
また、同じく国の重要文化財で ある銅鉢は、供物を入れて神仏に 供えるための什器であり、「牛王板 木(ごおうはんぎ)」は難よけの護符である。国の 重要美術品の「銅鐘」は福島県下 で最も古く、その昔処刑場のあっ た地獄谷には、この鐘の音が届か ないという言い伝えを持つ。その 他にも、県の重要文化財である「銅 製鰐口(わにぐち)」や「木造文殊菩薩騎獅像」 などの貴重な文化財は、熊野神社 のはるかな歴史を物語ってくれる。