塩川町勢要覧 -004/030page
ふたつの道の物語。
阿賀川舟運と米沢街道。
塩川が商業都市としての性格をしだいに強めていったその背景には、阿賀野川船運と米沢街道というふたつの道の存在があった。
これらの道は、会津では手に入らない塩や上方の特産品はもちろん、全国各地の文化をもたらし、塩川に粋と風雅を運んだ。「屋号とのれん」の町として知られる塩川町。商店の軒先には、藍色に染め抜かれた風情あるのれんがたなびき、上方交易で栄えたかつての面影を残している。藩政時代には、会津藩の統治下にあり、もともとは城下町的性格の強かった塩川が、多数の舟が往来し、商人や職人が行き交う商業郁市へと発達していったその背景には、阿賀川舟運と米沢街道というふたつの道の物語があった。
阿賀川は、猪苗代湖を源とする日橋川や檜原の山々から流れる大塩川、尾瀬から流れる只見川などが流人する、豊潤な流れの川として知られている。越後山脈を横断し、やがては阿賀野川となり、新潟平野へ続くこの川を利用した舟運は、会津の歴代藩主の願いであった。しかし当時の阿賀川は"揚川〃と呼ばれるほど水かさが多く、難所もあり、舟運による廻米船の実現には至らなかった。
貞享元年(一六八四)、塩川村の肝煎りである栗村権七郎による難所の改修と廻米船の建造により、阿賀川の舟運は一挙に開花する。塩川は、この阿賀川舟運の起点の地であった。貞享三年(一六八六)には、数千石の米を積んだ船が中継地、津川に輸送され、元禄十年(一六九七)には年間約五万俵の米が大阪へ運ばれるようになる。また、戻り荷には会津では手に入らない越後塩を中心に、上方物の綿花、反物、茶、鯨、昆布などが阿賀川を溯って塩川に陸揚げされ、やがて町は会津の代表的な物流拠点となっていく。
塩川の商業文化を育んだもうひとつの道、米沢街道は、若松より北へ十四里余り、上杉氏の城下米沢へと通じる道であり、古くから藩主の通行や、商用の荷だななどの経済輸送に利用され、さらには領地支配の要として重要とされてきた。
慶長十三年(一六〇八)、蒲生秀行の代に、塩川を通ることが定められ、それまで金川通りと呼ばれていた街道は、塩川通りと改められ、米沢街道の本街道となる。町には駅所と市が開設され、舟運の発達とも相成って、いっしか町は船問屋や船改所が建ち並び、多くの商人や職人、旅人たちが行き交う在郷町となった。ふたつの道は物や人の流れを活発にしたばかりでなく、全国の文化や芸能を塩川に伝え、音曲や人形芝居、演劇などの文化遺産と伝統を生み出すのにも役立った。なかでも、庶民文化の華である俳句は、一重三石が安永年間(一七七二〜一七八○)にその礎を築き、幕末期には、会津の蕪村といわれた斎藤阜雄が登場し、塩川俳壇の黄金時代を築き上げる。その後明治に入ると、阜雄の弟子の豊島松圃が登場。松圃は、春湖、等載など、当時の中央俳壇の緒家と交わり、才名を表し"東奥に松圃あり"とうたわれた。現在でも御清水公園には、松圃の「湧く音の月に静まる清水かな」の句碑が建ち、ふたつの道が運んだ文化を今に伝えている。