あいづばんげ町勢要覧 -006/034page

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街道の軌跡

 「坂下の馬鹿三里」という言葉があ る。坂下の人に道を聞くと、何処に 行くのにも「三里」「三里」とこたえ るのだそうである。実際坂下から会 津若松・喜多方・野沢・柳津・高田 何処をとっても約三里(十二km)の 位置にある。これは中世、坂下町の 商業活動を保護するために、三里以 内の商業活動を禁じたためである。 当時の越後道は勝負沢から青木・青 津・立川から大川を渡って森台から 米沢街道につなぐものであった。慶 長十六年(1611)会津大地震は 勝負沢峠を通行不能にしてしまった ために急速束松峠・鐘撞堂峠・坂下 をとおる路線を越後街道の本街道に したといわれる。

 近世の街道は、幕府の交通政策に 則ったもので各所に本宿をおき、そ の間を間(あい)の宿(しゅく)で補い荷物・人の輸送 に厳しい掟を定めた。本街道となっ た越後街道では、坂下・塔寺・船渡・ 片門が本宿で、気多宮・天屋本名・ 峠の茶屋が間の宿であった。

 気多宮の村外れは、越後街道と柳 津道・沼田街道の追分であった。  「是れより左柳津路・是れより右越 後路」と達筆に彫られた追分石に"越 後出るときやみんなで来るが泣い て別れる気多宮"と唄った毒消し売 りの娘達の哀願が滲んでいる。

 鐘撞堂峠から西を望めば船渡・片 門その間を只見川が流れ彼方には重 畳と連なる束桧峠の山並みが望め る。束松峠は会津盆地をはるかに望 む最後の峠であった。風雲急な幕末 吉田松蔭が越え、戊辰の敗残の将・ 秋月永胤(かずひさ)が鶴ヶ城をのぞんで「行く に輿無く帰るに家無し」と断腸の思 いを吐露したのもこの峠であった。

 明治十五年会津三方道路越後街道 は束松峠の険を避けて藤峠経由とな ると、人通りはばったりと途絶え沿 道住民は生活の道を失ってしまっ た。住民は独力でこの峠に全長二百 メートルに及ぶ洞門を貫き県道編入を迫っ た。しかし、時既に遅く時代は鉄道 による大量輸送の時代に入っていた のであった。

 この峠を貫いて、今高速自動車道 の工事がたけなわである。江戸時代 新発田藩主溝口侯の参勤交替路でも あったこの峠は、首都と直結する磐 越自動車道として生まれ変わろうと している。

はじめに街道ありき

是れより左柳井樽、是れより右越後路
古い道標は、往き交う人々を静かに見守り続けた。
越後からの毒消し売りやごぜ、只見川下りの筏師などの
宿場町として賑った街道沿いの追分では、
今も残る老舗のたたずまいが往時の面影を偲ばせている。

天屋・束松旧街道の宿屋・松原屋の看板
1.天屋・束松旧街道の宿屋・松原屋の看板

昔のはたごやの面影
2.昔のはたごやの面影

越後街道の風情を伝える越後路追分道標
3.越後街道の風情を伝える越後路追分道標

土蔵造の宿屋
4.土蔵造の宿屋

今も残る宿屋のたたずまい
5.今も残る宿屋のたたずまい

6.宿場町の面影を今に伝える越後街道気多宮の宿


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