あいづばんげ町勢要覧 -008/034page

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街道の軌跡

 街道は人や荷物が通るだけでな く、神々もまたここを去来したので ある。村の人口には道祖神・石地蔵・ 二十三夜塔などを祀って厄神が侵入 するのを防いだ。村の中には、伝説 に語りつがれてきた庶民の神々があ る。塔寺の茶碗塚地蔵・坂の下の夜 泣地蔵・船窪の北向き地蔵などはこ のような神であった。

 神仏の伝説には、その発祥を古代 に潮って説くものが多い。高寺山伝 説もこのような伝説のひとつで壮大 な会津の仏教文化発祥伝説となって いる。欽明天皇元年梁国の僧青巌が 庵を結んだのが始まりといわれ、舒 明天皇の時代南岳慧慈の弟子恵隆が これを継ぎ「高寺三千坊」と呼ばれ る程の坊舎を擁しておおいに栄えた という。

 この流れをくむ恵隆寺本尊木造十 一面千手観音立像は立木観音とも呼 ばれ八メートルの巨体に二十八部衆風神雷 神を従えた様は畏怖さえ感じさせる。 会津に二例を数えるだけの純和様の 観音堂は立木観音の巨体を祀るにふ さわしく、直径一メートルあまりの円柱の うえに大斗・平三斗を備え、板壁・ 茅葺き・寄せ棟の大堂である。観音 堂・本尊ともに鎌倉時代初頭の作と 考えられ重要文化財になっている。 西会津町鳥追い観音・新鶴村中田観 音とともに会津三観音のひとつで、 信者の参拝は絶えることがない。

 観音堂の西二百メートルには心清水八幡 神社がある。この神社は代々の領主 の信仰熱く、会津総鎮守でもあった。 その起源を尋ねると、源頼義が奥州 安部頼時追討の時山城の国から石(いわ)清 水八幡を勧請したに始まるといわ れ、重文「塔寺八幡宮長帳」をはじ め数々の宝物が納められている。

 旧越後街道から北四キロメートル程の高寺山 麓には宇内薬師がある。会津五薬師 の西方薬師でこれにも高寺下ろしの 伝承がある。本尊薬師如来は重要文 化財、欅の一木造りで像高一メートル七七 センチ会津中央薬師である勝常寺薬師如 来に次ぐ古仏で、堂内には薬師如来 の春属である十二神将などの仏像が 納められている。ここには重要民俗 資料としての元禄時代に奉納された たくさんの絵馬がある。

街道に残る信仰の跡

塔寺には高寺山三十大坊と呼ばれる坊(修業所)があり、
"高寺山仏教"と称された仏都会津の発祥地である。
重要文化財の一本彫立木観音像や宇内薬師如来坐像、
今もたくさんの人々の厚い信仰を集めながら
決して色褪せることなく、静かに輝きを放ちつづけている。

村の入口に立つ地蔵尊
1.村の入口に立つ地蔵尊

会津五薬師のひとつ宇内木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)
2.会津五薬師のひとつ宇内木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)

宇内薬師脇侍、月光菩薩像(県指定文化財)
3.宇内薬師脇侍、月光菩薩像(県指定文化財)

宇内薬師脇侍、日光菩薩像(県指定文化財)
4.宇内薬師脇侍、日光菩薩像(県指定文化財)

宇内薬師堂
5.宇内薬師堂

千手観音脇侍、二十八部衆
6.千手観音脇侍、二十八部衆

7.木造千手観音立像(塔寺立木観音像)の右側御手
 (国指定重要文化財)


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