カラムシ資料集その1-026/028page

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文学に現れる苧麻
藤川宿のみやげ苧細工 原田市郎 一部抜粋
伊勢物語の三十二、「倭文の苧環」の章に
いにしへの しづのをだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな
倭文は昔の繊維のことで、苧環は織るために意図を丸くまいたものである。
流れ公方記 「緋の雪」より 水上勉 一部抜粋
天保の頃のことである。会津の金山から、はるばる只見川の上流をのぼりつめた山をこえて、小平谷の機屋まで修行にきた伊助という男がいた。金山村で、青苧づくりをしていた伊助は、越後の小千谷へゆくと、そこには、縮を織る「機屋」があり、そこで修行すると、江戸や京に飛ぶように売れる縮をつくる技術が覚えられる、と憧れたのが第一理由だが、…中略…天保のはじめ頃のことだから、越後、会津一帯は凶作に襲われていた。米、野菜の不足から、食扶持もなくなり、一家路頭に飢えるという農家も出て、伊助のうまれた金山村も、その例にもれなかった。伊助の家はとりわけ貧乏だった。「青苧」をつくるといっても自分の田畑でつくったのではない。地主の家の賃仕事にいっていたのである。青苧は麻の一種で、金山のあたりは、山裾の畑に栽培した。五月がくると、これを刈って、青苧むしといって、地主の家の裏庭で、釜をきずいて丈高い苧束を釜でむし、これを流れ川につけて二、三日ひたしたあと、庭にあげ、男女があつまって、皮をむき、これを軒端の竿に干すのである。地主は、伊助らに賃銀がわりに米麦をくれたが、小作人の次男に生まれた伊助には、いつまでも、こんな青苧むしの下働きをしたってうだつはあがらない、それより機織りをおぼえた方がよい、と思われて、小干谷へ単身で向かった。…
平親宗、衣笠内大臣が詠んだ歌
かり衣むしのたれとはしらねども
おもかげにたつこまの行ずり  平親宗
吹きわたす野原のかぜをたよりにて
むしのしたにぞ心とめつる  平親宗
むしたるるあづまをとめかすきかげに
なごりおほくてゆきわかれぬる  衣笠内大臣

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