秘境檜枝岐 - 000_02/013page
檜枝岐村のおいたち
奥会津の秘境檜枝岐村は澄んだ空気と緑の大自然に包まれた桃源境で、檜枝岐川に沿って人家が点在しのどかな山村風景を繰広げている。村のおいたちを調べると、村内の遺跡から発掘された土器の文様からみて、縄文時代にさかのぼることが出来る。七ヶ所の遺跡の内、下の原遺跡は現在畑になっているが檜枝岐発祥の地とされ、昔「小屋の原村」と言われた時代にも集落はこの下の原一帯であったと考えられている。村名から想像すると此の時代は掘立小屋が十数軒程度の部落で住民は獣の肉や木の実などによって生活していたものと思われる。
そこへ延暦十三年(七九四年)紀州牟漏郡星の里(きしゅうむろごおりほしのさと)から藤原金晴が来て住みつき、承和十一年(八四四年)には越後国より藤原常衡(ふじわらつねひら)・大友師門(おおとももろかど)・熊谷勘解由(くまがいかげゆ)の三人が来て家を造り村を開いたと伝えられている。治承四年(一一八○年)高倉宮御通行の記録に「檜枝岐」と記されているところをみると「小屋の原村」ではなくすでに「檜枝岐村」になっていたと思われる。なお村名の由来は良質の檜材が多量に産出した為と言われている。
檜枝岐村は現在に至るまで「星」「平野」「橘」の三つの姓しかなく、「星」については藤原金晴が住みついたのが始まりで藤原が本姓であるが星の里の地名をとって「星(仮姓)」と言い、家紋は“九曜星”である。「平野」については確かな記録はないが平家の落人説が有力である。京なまりと檜枝岐の言葉が似ていること、家紋が平家と同じ“揚羽蝶”であること、平野についての記録が無いこと、これは源氏の追討から隠れ住む為に記録を残さなかったと考えられる。
「橘」については古文書によると『永禄十二年(一五六九年)勢州治田(せいしゅうはった)[現在の三重県員弁郡北勢町治田]より楠助兵衛橘好正来り滝沢に居を構えて住す。之より橘姓の初めとする』とある。治田の城主楠七郎左衛門橘正具は織田信長に攻略され次男の橘助兵衛好正が落ちのびて住みついたもので家紋は“御前橘”である。このような歴史の中で育くまれた信仰・史跡・民俗・風習についてたどってみることにしよう。