わたしたちの町とみおか-024/027page

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4.きょうどを開いた人々 4―(1)用水路をつくって水を引く
(1)滝川用水をたずねて
今からおよそ200年前(1689年)、当時の領主(内藤能登守義孝)は現在の下千里地区に人きぼな新田開発を行なった。そこに、戸数およそ100戸ほどの農民を住まわせ、新しい千里村をつくった。
それまでは、天水やため池の水にたよっていたが、それだけでは水が足りないので富岡川の上流から水を引いたのが、滝川用水です。村人はこの水をかんがい用水や、生活用水として利用していた。
・全長 7q
滝川用水

(2)夜の森地区の開発
1900年(明治33年)頃の夜の森地区には、現在の駅周辺には4軒の家があっただけであとは広い原野でした。この原野を開拓し農場づくりを始めたのが小高町からきた半谷清寿さんです(六芳苑の祖先)。また、半谷さんは国道までの約1.5qの道の両側に300本の桜を植え桜通りをつくりました。
但野芳蔵さん(芳美さんの父)は1907年、半谷清寿さんのすすめで鹿島町から来て現在の駅前周辺の原野を開拓し、樹木の苗を育てる仕事をはじめました。
2人は地区の人々と協力し夜の森地区の開発を考え、駅をつくることを決意しました。2人は駅をつくるために2年以上も運動をつづけました。その間、東京や水戸に10回以上もお願いに通いました。費用もたくさんかかりましたが、それは自分の土地を売ったり、自分の土地を寄付したりして努力をつづけました。
その結果、ようやく1921年3月(大正10年3月)、夜の森駅ができたのです。
4軒しかなかった夜の森地区にも急に住む人が多くなり、現在のような町になったのです。
その後も2人は夜の森地区の発展に力をつくしました。

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