ならはの絵馬−村人の祈り−-028/036page

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番号 名称(図柄) 奉納年月日 西暦 銘 文 絵師 寸法縦×横 形態 色彩の有無
16 天満宮由緒書類 昭和39年6月25日 1964 由緒
抑々天浦宮は菅原道実公を祭り給ヒ、公
は承和十二年文学博士菅原是善氏の長男
として生まれ生来頭脳優る、十一才にし
て作詩し長ずるに及び文武両道に達す
醍醐天皇に英才をみとめられ国政に参与
五十五才にして右大臣となる、然るに左
大臣藤原時平氏の妬むところとなり讒言
され延喜元年一月二十五日太宰府に移さ
る、太宰府にありても日々皇室の御安泰
を祈り子弟を集め学問習字を救え延喜三
三年二月廿五日歳五十九才を一期として
永眠さる、其の後正義は天に通じ右大臣
正二位に叙せられる学問の神として京都
北野天満に祀られたり、北野天満は小生
宅蔵書の天正五年の繰起由緒書に依れば
今より六百弐拾年の昔、徳治元年頃前原
続きの脇ケ浜に童子天神として薬師如来
沖より汲に乗り上げササクネと云う磯石
に御腰をかけた御神体あり、其の訳は御
神体に印あり海中にお住まいなさる事流
れ伝わる、時に正慶元年八月廿三日毎日
七時半時にまれば子供の姿と見い須賀へ
上がり二三人の子供と遊び居る様なり、
浜の人々不思議に思い一同身を清めて近
寄り見れば右の御神体に見いける、脇ケ
浜の城主梶原豊後守段に申し上ぐれば神
立せしとの御下知あり九月一日脇ケ浜村
一伺神立湯立し奉り童子天満宮を示顕し
ける、其の後別当京都に登って童子天満
宮由緒を申し上ぐれば北野天満宮御別当
より九州筑前の図太宰府天満宮御分霊の
御諭しあり、延慶元年太宰府天満宮より
更に御神体を勧請し奉る急ぎ脇ケ浜に帰
国童子天満宮と合祭せり、其の後慶長中
脇ケ浜村中は大繁盛したと伝わる、後木
戸川大洪水にして脇ケ浜は流失村民は大
谷繁岡に移転し天満宮社だけが残り御宮
も危険の状態にせまり、名主等相計り元
和元年八月廿五目上ノ原に遷宮せしも又
波濤の侵す所となり明治十三年六月廿五
日現地に遷宮す、昭和廿四年拝殿新築、
昭和三十八年本殿の改造有り信仰者は後
を絶えず、鳴呼神よ永久に鎮り給いて産
生子等並びに崇敬者を護り拾いと曰す
 昭和三十九年六月廿五日
      奉納者氏子総代 橋本新一
71 188 横長額入
(17) 算額 明治27年7月 1894 奉納 今有如図以等円二個作三ケ月形、其透容
仁義札智四円、只云、仁義円径和乗智円
径三寸。又云智礼円径和乗仁円径四寸。
別云札円積二歩。問義円積幾何。
各日、義円積一歩五合。術曰、以又云除
只云。乗別云得義円積、合間。
 最上流佐久間纉門人
   磐城国楢葉都富岡村 関根熊吉撰
 明治二十七年七月
昭和五十九年八月
  相馬和算研究保存会校閲複元奉納
         氏家義之 庄司国男
45 60 横 長

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