教育福島0012号(1976年(S51)07月)-005page

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心に響くもの

 

福島県高等学校長協会会長 菅野定次

然であろうが、その表れ方の中に、純粋なものが一本貫いていると感ぜられる。

 

人間の心というものは、もともと純粋なものであると信ずる。これは老若男女を問わず、だれもが生来もってきていると思う。しかし、人の言動は千差万別であり、また、同じ人でも、年齢・人生経験などにより、その時、その場により違った表れかたをする。これは、各自が社会の中に生きている以上、いろいろな外的制約や内的束縛をうけるので当然であろうが、その表れ方の中に、純粋なものが一本貫いていると感ぜられる。

たとえばしかった場合、しかられた者の反応は、しょう然としたり、発憤したり、反発したり、素直に反省したりいろいろだろうが、心の奥底では確かに正しく受け止めているものだ。しかった時から数十年たってから、しかられた教え子が、その時の話をなつかしそうに話すのを聞いたりすると、この感を深くする。

逆に、ほめられるのは悪い気がしないのに、この方は時を経るにつれて、忘れてしまうものらしい。うれしさというものは、心に響く度合いが少ないのかも知れない。

この二つの場合に、いつまでも忘れられないものと、自然に記憶から薄れていくものとの違いは、何によるのだろう。やはり心に響く度合いが違うからだろうと思う。

この心に響きを感ずる純粋さを豊かにもっているのは、小学校から高校までだろうとつくづく思う。とくに高校時代は、多感で、しかも行動力に富みすぐに言動で表現する。その意味で、心に響くものを豊かに与えることが非常に重要である。

しかし、「心に響くもの」といっても簡単ではない。教師が「ことば」だけで言っても心に響かせることは容易にはできない。元来「ことば」は、話す人の心にあるものを相手に伝える道具ではあるが、思っていることを百。パーセント伝えることは困難である。しかも、高校生ぐらいになると、すぐ相手の心を見抜いてしまい、話をしても空虚なものとして受け止める場合が往々にしてある。また、誰が話しているかによっても受け止め方に差をつけたりする。まことにむずかしい。「ことば」だけではだめである。

そこで、教師の日常の姿勢と熱意がきわめて重要なものとして問われることになる。これによって、教師の生徒からの信頼の度合いがきまってくる。信頼感こそ心に響かせる根源である。生徒が求めているものをじゅうぶん研究し、またじゅうぶん用意し、熱意と誠意をもって与えていく。いや熱意をもってぶつかっていくのだ。こうした教師の「ことば」を越えた姿勢からは、必ず「信頼」が生まれる。生徒は心に響くものを感得してくれる。

これが古来から少しも変わらない、人間と人間との「心」のふれあいでもあり、教育の根本だと信ずる。現在の高校教育には問題が多いが、青年教育の根源であるこの「心の響きあい」を、見失わないようにしたいものである。

 

 

 


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