教育福島0038号(1979年(S54)01月)-005page

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巻頭言

 

私の教師論

福島県教育庁総務課長 佐藤昌志

 

が図られたことは、教育界に身を置く一員として喜びにたえないところである。

 

学校教育が次代を担う青少年の人間形成の基本をなすものであることに鑑(かんがみ)み、教育界にすぐれた人材を確保し、もって学校教育の水準の維持向上に資する目的をもって、昭和四十九年二月制定された、通称人材確保法に基づく教員給与改善の最終にあたる第三次後半分が、一昨年十二月県議会において公布施行され、法制定時における給与と比較して約二五%増の優遇措置が図られたことは、教育界に身を置く一員として喜びにたえないところである。

しかし、巷(こう)間「給与は上がったが教師の資質は旧態依然ではないのか」との声をきくとき、我々教師は謙虚に自己を反省するとともに、教師の使命とは何なのか、もう一度考えてみる必要を痛感するのは私のみではあるまい。

いうまでもなく教師は両親の信託を受け、その信頼にこたえて教育に携わる奉仕者であり、その公共性のため常に政治的中立の立場を堅持し、職務の遂行に当たっては、全力を挙げて専念しなければならないことは当然のことである。また、最近までの傾向として、教育とは教え育てることでありながら、教えることのみに重点がおかれ、育てること、換言すれば社会共同体の一員として存在する人間として必要な徳の面の教育がなおざりにされてきたきらいがあることは否定できない。

教育の目的は究極は人格の完成を目指すものであり、人格の完成とは、個人の価値と尊厳の認識を基本として、人間の備えるあらゆる能力をできる限りしかも調和的に発展せしめることであると思う。

具体的には真理と正義を愛する人間、個人の価値を尊ぶ人間、勤労と責任を重んずる人間、自主的精神に充ちた心身ともに健康な人間の育成にある。この目的に向かって、教師は授業の面においては「何のために学ぶのか」という子供の目的意識の確立を図り、常に子供に対する愛情を基本とした持続性、継続性ある教育に努めなければならない。

また教師は、個人として教育するものではなく、学校という組織体の一員として教育するものであることを自覚し(服務規律の遵守等)、校外にあっては、父兄への誠意ある指導を通しての啓発、あるいはその専門性を生かした地域社会への参加協力が要請されるのである。

そのためには自己形成と、社会の進展に対応できる知的能力の向上に努めるとともに、個々の子供の理解とその表現力に意を用い、子供に親しまれ、信頼を受け、常に公平であり、明朗溌剌(はつらつ)として寛容であると同時に忍耐強くあることが必要である。

人間教育には二つの姿がある。一つは子供に対する対面の教育であり、他は後の教育である。後の教育とはみずから人格形成の途上にあるものとしてその完成を目指し努力してゆく姿である。そして後の教育が、その一挙手一投足がなににもまして子供に影響を与えるものであることを私は強調いたしたい。

 

 

 


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