教育福島0050号(1980年(S55)04月)-005page

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巻頭言

 

今、無駄なものにこそ

 

草野福重

 

は限らない。「できる人」である上に「できた人」になれということであろう。

 

東京大学の今年の入学式で、向坊学長が新入生に対し、「できる人となるよりできた人となれ」と訓辞したことが評判になった。東大生といえば、全国有数の秀才と努力家の集まりで、将来、その大部分が各界各分野で所謂(いわゆる)、「できる人」になることは想像に難くないが、だからといって、人間的に幅のある「できた人」になるとは限らない。「できる人」である上に「できた人」になれということであろう。

この学長の訓辞は、ゆとりある教育を盛り込んだ、新教育課程の趣旨にも一脈通ずるものであろうと思う。

知育偏重を是正し、知・徳・体兼ね備えた人づくりに努めることは、ずっと以前から教育界の最大の眼目であるにもかかわらず、何故それが話題となり、また、話題にする必要があるのだろうか。その理由をこそ、教育に携わる者が、反芻(すう)して考えなければならぬことであると思う。

確かに我々自身を含めて子を持つ親が、「自分の子弟は、社会に出て立派に、あるいは少なくとも人並みに一人立ちできる能力を身につけて欲しい。ある程度の力を持っているのなら、なお、他人より抜きんでて欲しい」と願うのは、心情としてよくわかる。また教師も「一人一人の個性を引き出し、最大限その能力を伸ばしてあげたい」と考えることも当然のことであり、むしろそうあるべきであろう。

だが、現実社会には、「できる人」はたくさんおり、多いからこそ悲喜劇が生まれ、反動としてのひずみや社会離反、よりできる人たらんとして、はりつめた弓弦(ゆんずる)の切れる悲惨に接するとき、知識のみの教育ではいけないことを知らされる。社会構造の今日的な複雑さ、時代の要請のエゴイステイックのなせる業であるかも知れない。がしかし、社会を構成し、それを営むのが我々自身である以上、責任をそこに転嫁することはできない。分業と分担で成立している社会の中で生きていくためには、それぞれの持分に応じた生きがいと幸福を見い出さなければならないし、無理をせずに、じっくりと自分の生活を築くことが、とりもなおさず他の人間をも幸せに導く理(ことわり)であることも認識しなければならないのである。

巷間の処生訓に、「無理、斑(むら)、無駄をなくせ」というのがある。無理はいけないが、無理をなくすために若干の無駄があってもよい。いや、今、本当に必要なのは、何事にも回り道と見られる無駄の再評価ではなかろうか。

日本人の勤勉さは無駄を罪悪と考えさせる。しかし、無駄にたえる忍耐は、他人の無駄をも許容する度量とゆとりを与える。教育は百年の計である。急ぐまい。若干の無駄を承知でもよい。回り道でも、自らゆとりを持って、ゆとりと幅と強さを持った子供たちを育てたいと願うものである。

(くさのふくしげ・県教育次長)

 

 

 


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