教育福島0062号(1981年(S56)07月)-048page

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こぼればなし

 

ベース、三角ベース、ベースボール。今年もまた、高校球児の季節がやってきた。現在、福島県高等学校野球連盟への加盟校は、七〇校(県立六十二校、私立八校)であるという。

甲子園への道は、一昔前まで福島・宮城二県の代表校一校であったものが、本県球児の活躍とレベルアップが評価されて、昭和四十九年の大会から福島大会の優勝校が即出場できるようになった。これは、高野連関係者の永年の努力が実ったものでよろこばしいことである。

今年度の春季大会・県大会の出場校に限っていえば、結果的には名門福島商業高等学校が優勝旗を手にしたものの、福島高等学校、安積高等学校、会津高等学校など、いわゆる進学校が地区大会を勝ちぬいて、県大会に駒を進めたことは快挙である。また、名門磐城高等学校を擁するいわき地区から、勿来高等学校が二年連続県大会出場となったことも見逃せないし、優勝戦で、エースを欠いたものの果敢に戦った二本松工業高等学校にも拍手をおくらなければならない。勝利の機動力は、勿論ナインにあるだろうが、監督をはじめ関係者の地道な努力に敬意を表さずにはいられない。そしてまた、各監督自身、汗と泥にまみれてその青春を野球にかけたと聞く。これら実践者の努力が、見事花開くのもそんなに先のことではあるまい。

ところで、今年の東京六大学春のリーグ戦では、東京大学の活躍がめざましく、新聞などでもその健闘を称えた評が多かった。最終成績は四位であったけれども、東大野球部の歴史の中では、度々経験されたものではないであろう。本月号に、昭和五十年代当初、東大野球部投手であった西山明彦氏から原稿をいただいた。氏の汗した日々が、短文の中に脈々としている。そしてそこには、青春が生々しく活きづいている。さわやかな感動を覚える文章であり、編集子は真摯な生き方をここに発見するのである。

さて、野球の最初の試合は、一八三九年ニューヨークのクーパースタウンの校庭とも、一八四六年ニュージャージーで「ニッカーボッカー」対「ニューヨーク」の間で行われたともいう。その後、アブナーダ・ブルディ少将により競技規則が創案されたらしい。わが国では、明治六年東大の前身開成校の学生が外人教師の指導を受けたのを最初に、明治二十三年には、旧制一高と横浜外人チームとの間で試合が行われたそうだ。福島県では、明治二十年代後半に、海野善尭和尚により紹介されたのがはじめてで、当時の福島県蚕業学校の校庭や自宅の康善寺広場を開放して、師範学校の生徒などに野球を指導したという記録がある。現在のわが県野球隆盛の基礎を築いただけではなく、さしずめ施設開放のパイオニアというところである。東北野球連盟会長・県野球審判協会長・県体協副会長等の要職にある海野篤之氏は、その御子息に当たる。(因みに、「ベースボール」といわれた球技が「野球」ということばに熟したのは、正岡子規の力に負うところが大きい。関心のある方には「松薙玉液」(子規・一八九六)の一読をおすすめする。)

青春賛歌−汗と泥とそして涙とが、自らの青春を強く雄々しくしてくれる。その幕あけがもう目の前にきている。

さあ球児に乾盃を!

 

あとがき

 

あとがき

 

●六月六日は、旧五月五日に当たるので菖蒲湯を思いついた。小学生の子供が「どうして菖蒲湯をするのか」というので、故事来歴を説明しているうちに、「ショウブ」と「アヤメ」と「イチハツ」はどう違うのかということになった。「まあ同じようなものだ」と答えたもののどうも場都合が悪い。こんな時、小学校の先生なら上手い答案が出せるのだろうと思いながら手近の辞典をあたってみた。〈菖蒲〉サトイモ科の多年草。花は淡緑色で小さい。花菖蒲の俗称。〈渓◆〉アヤメ科の多年草。花は花菖蒲に似て小さく青紫色。菖蒲の古称。菖蒲とも書く。〈鳶尾〉アヤメ科の多年草。花は、花菖蒲に似て美しく紫色。一八とも書く、とある。「同じようなものだ」というのでは解答にならない。「多年草」・「花菖蒲」・「葉の状態」など具体的な説明なしには相手も納得しないであろう、と今にして思う。もっとも、七月のあとがきに、菖蒲のはなしでは「六日の菖蒲」もいいところである。(ひ)

 

 

 


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