教育福島0069号(1982年(S57)02月)-005page

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巻頭言

 

このときをこそ

飯島 護

 

めた。おかげで、季節はずれに、家庭菜園の手入れもできるというものである。

 

まもなく立春である。地球上の一部には大寒波が襲っているというのに、わが福島は暖冬である。雪不足をかこつほど雪も少ない。軒下の水仙も、そろそろと土を盛り上げ、蕾を出しはじめた。おかげで、季節はずれに、家庭菜園の手入れもできるというものである。

作物の取り入れにはそれぞれの時期があるが学校の収穫期は三月である。

いま、まさに稔りの学期の最中である。彼ら生徒たちが巣立ち行くときである。育ち行く子供たちと教師との間に行われた教育的営みの真価が問われるのである。

真摯に働く親の姿を見て、子は育つし、そのような家庭に非行はない。教師のうしろ姿からも、子供たちは何かを汲み取っている。それは想像以上である。投影である。子は親の鏡であると同時に、生徒は教師の鏡である。

「足らざるを足れりとせよ」などとは言わないものの、置かれている諸条件をフルに活用させて、子供たちとともに学び、語らい、泣き笑い喜ぶうちに、一年の経つのもアッという間と感じる教師をこそ尊いと思う。子供らにとってみれば、それこそかけがえのない人生の一時期を、価にかえられない何年かをわれわれはあずかっているのである。しかも教育の成果は、それを受けた生徒たちのそれぞれの遠い将来をまって、はじめて花開き実を結ぶと言っても過言ではない。この教師冥利を思うとき、ますます、じっくりと腰をすえて、彼らの貴重なこのときを大切にして行きたいと思う。切れ味は良くても刃こぼれのし易い剃刀よりは、切れ味こそ悪くても、ちょっとやそっとのことには驚かずに、事にあたってひるまない銘のような刃こぼれのしない教師でありつづけたいと思う。

春未だしの今日の日も、生徒たちは勉学にクラブ活動に励んでいる。彼らひとりひとりが悔いのない学校生活を送って行って貰いたいとの思いはつのる。芽吹く春が待たれる。過ぎる一年をふりかえり、来年度こそはの思いに駈られるのである。

(いいじま まもる 福島県立福島高等学校長・福島県高等学校体育連盟会長)

 

 

 


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