教育福島0070号(1982年(S57)04月)-025page

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随想

 

新入園児を迎えて

 

長谷川素子

 

長谷川素子

 

会津の里もようやく桜の季節となった。今年はむくどりの受難をまぬがれたピンクの花が、鮮かなブルーの園児服にマッチして一段と美しい。新入園の幼な子たちも次第に園の空気にとけこみはじめ、今日は在園の先輩たちから手作りのバックをプレゼントされ、大喜びだった。この子たちが幼稚園のたのしさを知るのも間近いことだろう。

この春、私は十年ぶりにかつて在職した園にもどることになった。そこで迎えた新入児の保護者の中に、以前の受持ちクラスの子供が四人もいておどろいた。それぞれ可愛い園児の母親として立派に成長しており、感激一しおであった。同市内の職場に長くおせわになっていれば当然といえば全く当然の経験とはいえ、あらためて職業のありがたさをしみじみとかみしめたものである。四人についての幼いころの思い出は鮮明で、時間のへだたりもなく、即、現在につながっている。「三つ子の魂百までも」という諺どおり、幼児期に両親や教師の与える影響が一生を支配することを自覚して、正しくその指導にあたりたいものである。

はなしは変わるが、私にはすでに父母は亡く、今は定期入れの写真と面会するのみであるが、その人生の教えだけは、全く薄れることもなく、この胸の中に生きている。そのほとんどは精神教育であり、かなり苦痛に感じながら聞かせられた説教も今はとてもなつかしい。「物質的に豊かな人間より、精神的に豊かな人間は幸せなのだ」、といいながら、苦しい中で子供たち三人を四年制大学で勉学させた。私はそんな父が気の毒で「私は進学しない」とがんばったが、反対にすすめられて二年間父のすねを細めてしまった。酒も煙草も飲めぬ父は、私たちの成長が唯一のたのしみだったのだろう。よく子供たちを集めては「大きくなったらなにになるんだ?」と聞くのが癖だった。私はきまって「学校の先生!」とこたえたものだが、「小学校の先生」から「幼稚園の先生」と次第に変わったのは、自分の身長があまり伸びなかったこともあり、父との約束と、自分の希望の一致点が、今の職業なのである。動機は単純なものだが、小さなころからの夢が実現して今、この職を選だことに誇りを持つことができ、とてもうれしい。また子供たちを見る目も年を重ねるごとに変わってくる。ごく若かったころは、技能の未熟さをカバーしたいためか、がむしゃらに子供たちを自分の腕の中に抱えこみ、きちっとした学級づくりや幼児像を描いていた。間もなく委縮を反省し、次第に腕を広げ、伸びのびした積極性のある幼児像を描くようになってきた。最近では教師たちも「伸びのびした幼児の育成」をめざして努力している。現代の指導は技能や知識のつめこみではなく幼児みずからの心の働きをもとに、自ら考え正しく判断し活動させるための教師の存在が指導技術のポイントになるように思う。しっかりとした「ねらい」を持って経験や活動を精選し、幼児の活動を充実させるための側面からの助言、援助が教師の役目なのである。しかし、伸びのびと自由に活動させるためには最少限の約束ごとがなければならない。集団生活を営むための約束ごと、「要」をおさえた上での自由であり、伸びのびでなければならない。

あるとき、当時、高校生だった息子が、「お母さんは日の丸だなあ」と言った。それは「社会、学校、家庭のきまりを守ったうえで自分の判断で自由に行動させる」という私の子育て中の感想だ。非行防止のために、幼児期から高校卒業の日まで一貫して夕方の門限を夏は六時半、冬は六時と定め勉学のためとはいえ、夜間外出、外泊は認めなかった。幼少からの習慣づけは、苦労なく実践できることを体験して社会生活を営む上で必要な基本的な僕だけは、親・教師の責任だと思うからである。私の親は、子供の躾のために、同じ生活態度を示し、大人本位のルール違反をしなかった姿こそよい教訓であった。私の生涯の指針は両親の生きる姿だが、はたして自分は我が子の指針となり得たかと反省する年齢になってしまった。新入園児を迎えての多忙な毎日、幼児教育の重要さを認識しながら、一生の仕事と選んだこの職を大切に励みたいと思う。

 

(喜多方市立第一幼稚園教諭)

 

 

 


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