教育福島0077号(1982年(S57)12月)-040page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

こぼればなし

 

十二月になると、いつも「えと」のことが話題になる。手紙などでも、年をめした方からのものになると「壬戊」などと書かれていて、真顔で「これはどういう意味なのか」と子供にきかれたりすると、一寸説明に困る場面がある。

大体、「干支」は、暦の年月日、時刻、方角について、その順序と周期を表す記号であるが、この干支は、今から三千年ほど前、中国の股代にはじめられ、周代ころまでは、日数を数える記号として使われていたらしいが、戦国時代になると年月や方角を示し、漢代になって一日を十二に分けて、時刻を表すように工夫されたという。このような暦法、時法、方位を表すのに干支を使用する方法は、六世紀ころわが国に伝えられたといわれている。

 

この干支ときりはなすことができないものに「五行」がある。五行は、中国で戦国時代の中期に、天文の観測により「木・火・土・金・水」の五つの遊星に結びつけられ、その天体の位置によって、紀年を定めるようになったという。更に易の陰陽八卦とつながり、「十干」は、「五行」にふり分けられ、陰陽にしたがって、「剛・柔」に分けられた。わが国の場合も「十干」「十二支」が五行にふり分けられ、更に細かに五行を「兄・弟」に分けて表現されるようになった。この「兄弟」を「えと」という。したがって、これらの「五行」「兄弟」「十干」「十二支」を組み合わせると、しかつめらしい「えと」ができあがるしくみになるのである。今年岐五行の「水」、「兄弟」の「兄」、叶干の「壬」、十二支の「戌」であるので、「水の兄戌」(壬戌)ということになり、来る年は「水の弟亥」(癸亥)ということになる。

十干は、「甲・乙・丙・丁・戌・己・庚・辛・壬・癸」。これが「兄弟」にふり分けられて「木の兄」(甲)、・木の弟(乙)、火の兄(丙)、火の弟(丁)、……水の兄(壬)水の弟(癸)となる。十二支はいわずもがな、「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」であるので、十と十二を組み合わせると、十二支の十番目で十干は終わってしまうので、十一番目は、最初にもどり「甲」をあてる。最初の十二年は「甲子」(木の兄・子)からはじまり、「乙丑」(木の弟丑)と続き、「甲戌」「乙亥」となる。この十二年周期が五回続くと六十年。来年はこの六十年目にあたる「癸亥」の年である。「亥」は「猪」。なれば猪突猛進もさることながら蝸牛の歩みをも見習いたいものである。

 

ところで、来月号の提言をいただいた徳島県立池田高等学校野球部監督の蔦文也先生も「癸亥」の生まれである。先生は、今年度夏の甲子園大会で見事池里高校ナインを優勝に導いた名伯楽。優勝直後の各報道は、現役教員として最後の甲子園での采配であると報じた。社会科の教員である先生が、「定年」を間近になしとげた快挙という見出しも目についた。三十年におよぶ池田高校での監督としての「つらい、厳しい」春秋に、拍手をおくらなかったファンはおそらく一人もいないであろう。また、教師としての監督が、全国制覇のチームをつくったことに喝采をおくらなかったものもいないはずだ。「甲子」から「癸亥」の六十年の風雪が、氏の顔ににじんでいる。

 

提言といえば、四・五月号に「信頼できる文化を」の玉稿をいただいた吉井忠氏が、「県外在住者知事表彰」受賞の栄誉に輝いた。氏は、「郷土のためにあまり貢献していないのにもつたいない話です」と謙遜されているが、今後の活躍を心からお祈りしたい。この名誉ある受賞者からは今までに、本田安次文学博士と荒川秀俊理学博士のお二人に巻頭言と提言をいただいている。また、四・五月号グラビア題字「心肝醇乎」を御揮毫いただいた藤園高橋藤吉郎先生が今年度の福島県文化功労賞を受賞。更に、十月号に「虚室生白」を御揮毫いただいた晴堂樋口義容先生が、ボロきれで書いた「衆」の一文字で第七回読売書展に入選。これは、昨年初出品初入選に続いての連続入選の快挙である。再選は困難といわれる中での入選だけに、今後の精進が期待される。これらはすべて、「教育福島」誌の名誉とするところであるが、反面、おろそかにできない編集とのかかわりあいに、気のひきしまるのを覚えるのである。そしてまた、ともすれば停止しがちな鼓動が、激しい響きをともなって脈打つのを禁じえないのである。

 

迎える年の御多幸を祈りつつ……。

あとがきにかえて

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。