福島県教育センター所報ふくしま No.7(S47/1972.8) -020/025page
地域指導者養成講座
下郷町立下郷中学校 佐藤信夫
47年度の研修生として教育センターについていろいろと感じさせられたことを述べてみたい。まず第一に我々研修生を指導してくれた講師諸氏の熱意と絶えざる自己研修の姿である。日常の自分の教育現場でのあり方を反省させられ,よい刺激になった。さらにすばらしい事は種々の教育設備である。教育工学研修室で受講した時に,研修生の間にその教室の設備に驚嘆の声さえ聞こえた程のりっぱさであった。ただ,このような設備がここだけではなく,県内のあらゆる学校に備えることができたならば,学力が向上することは間違いのないところだと痛感した。テープレコーダーが唯一の教育機器である我が校にとってはうらやましい限りである。このような教育設備があれば,1日中ポカーンとしているT夫やA子にも,もっと授業に興味と関心をひき起こさせることができるのだが。もちろん,学力向上には我々教師の絶え間ない努力が必要なことは言をまたないが,より向上をめざすには教育機器の適切な利用が叫ばれていいはずである。近い将来にはどこの学校にもこのような教育設備が備えられるように強く希望してやまない。
湯野小学校 明石一夫
年間20日間の講座を受講することになり,6月6日,初めて教育センターへ入った。まず恵まれた環境と施設設備に感心し,たのもしさを感じた。
ひさしぶりに机にむかって講義を受ける側になり,毎日授業を受けている子ども達の気持ちも察せられる。午前9時から午後5時まで,日程は相当にきびしい。学級をはなれて5日間,休憩時にふと学級の子どものことも'気にかかる。"あばれんぼうのMはおとなしくしてるかな"るす中の学級をみてくれる先生方の苦労を思い,気持ちを新たに次の講義に入る。
年間を通して各自テーマを持ち,実験研究をまとめるのが研修の柱だが,日頃勉強不足の頭にはなかなか苦しい。教育の科学性がいわれる今日,あらためて教育活動のきびしさ,科学的な研究活動のむずかしさと重要さを身に感じると共に,自分の日々の教育活動の甘さを反省させられた5日間だった。指導の先生方の苦労を考えても講座の趣旨にそうよう,研修の成果を目々の教育活動に生かしていくように努力していきたいと念じている。
随 想
ピーピー笛をふきながら
第2研修部 柴田宣教
5月末のよく晴れた日の昼休み,部屋を抜けだして丸森線の敷地のあたりを散歩してみた。この線は赤字が予想されるとかで工事が予定より大変おくれているとのことであるが,教育センターのある瀬上附近では路盤の盛土が終っている。
路盤の土堤には雑草が一面に生い茂っている。私はその中にカラスノエンドウ(ピーピー豆)をみつけた。子どものころを思いだし,ひとさやをもぎ取り一端をちぎり,中の実を取り去り笛をつくった。ちぎらない方の端を口にくわえてふくと,ピーピーとよく鳴るのである。気持ち良く吹きながら歩いていたら,どこか商店にでも勤めていると思われる50ぐらいの女の人とゆき合い,つぎのような会話になった。
「なつかしいことをやっておりますね。」「いまの子どもはピーピー遊びを知っているでしようか。」「知らないでしょうね,だいたい外で遊ぶことがないんだから。こんな土堤で,すべったり,ころげたりして遊んだらたのしいのにね。」
中年過ぎた者の郷愁と言えばそれまでだが,この婦人は大切なことを言っているのではないだろうか。
今の子どもたちは,テレビを見ることを中心とした室内の遊びが中心となっているようである。自然を友に遊ぶことを忘れているのである。外は危険である,外は不潔である,家でおとなしく勉強する子は良い子である,といった親の考えが,子どもの遊び,ひいては心の成長に悪い影響を与えてはいないだろうか。
また,理科教育の問題として考えてみよう。理科は自然の理法を発見し,学びとる学問でありながら,あまりに自然からかけはなれたところで勉強しているのではないだろうか。大都会のように,自然の失なわれた所ならいざ知らず,自然の豊かな福島の地でさえ,実験室的な人工的な観察・実験しかしていないのではないか。ズボンの尻を緑に染めながら,白然を友に遊ぶことにより,野の草にしたしみ,虫や蛙とたわむれ,雲や夕やけの美しさを知り,その中からこそ,自然を見る目が養われ,豊かな創造性の芽がつちかわれてゆくのではないだろうか。
創造性をのばすための理科教育など,教育技術についての研究はよくなされているけれども,自然を研究するという理科の本質を,原点にかえってもう一度考えてみてはどうだろうか。