福島県教育センター所報ふくしま No.17(S49/1974.9) -025/026page

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 ◆本県の診断標準学力テスト問題についてお知らせ◆

 福島県診断標準学力テスト問題を本年,中学校1年・2年分をはじめて作りました。

 教科は,国語,社会,数学,理科,英語の5教科です。どうぞ御利用ねがいます。

 申込先…福島県教育センター内 福島県教育資料研究会

 なお,くわしくは,同センター「研究・相談部」におたずねください。

 あ と が き

所報第17号ができました。お届けします。今年の夏は暑い期間が短かかったといわれておりますので,先生がたにおかれては,特別活動,研究,研修等に精進されたことと思います。

 さて,教育史の編さんなどに携わっていると,いろいろな文章に遭遇するが,読者をして感動させる文章というのは,事実の重みの裏付けのある文章ではないだろうか。

 例えば,「‥‥‥(前略)天皇は落着きがなく,それまでの幾月かの緊張を,はっきりおもてに現していた。天皇の通訳官以外は,全部退席させた後,私たちは・迎賓室の端にある暖炉の前にすわった。

 私が米国製の煙草を差出すと,天皇は礼を言って受取られた。その煙草に火をつけて差上げた時,私は天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが,天皇の感じている屈辱の苦しみが,いかに深いものであるかが,私にはよくわかった。

 私は天皇が,戦争犯罪者として起訴されないよう,自分の立場を訴えはじめるのではないかという不安(ソ連と英国が提出した戦犯リストの筆頭に天皇が記されてあり,両国とも,天皇を戦犯者に加えるよう強く要請していたこと。マッカーサーがこれに強力に抵抗したこと。ワシントンが英国の見解に傾きそうになったときには,より強力に反対し,結局天皇の名は戦犯リストからはずされたこと。 − これらいっさいのことを天皇は少しもお知りになられなかったことをさす。 − 筆者 K 注 − )を感じた。……(中略)……こうした私の不安は,天皇の口から出た次のような言葉で消え去った。

『私は,国民が,戦争遂行にあたって,政治軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として,私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした』。

 私は大きな感動にゆさぶられた。死をともなう程の責任,それも私の知り尽している諸事実に照らして,明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする,この勇気に満ちた態度は,私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間,私の前にいる天皇が,個人の資格においても,日本の最上の紳士であることを感じとったのである。(後略)」(『福島県教育史第3巻』46ページ,遠藤 経執筆 "終戦当時の教育 − 混乱の教育現場″ − マッカーサー回想記 − よりの引用部分)。

 また,「……(前略)教職不適格の通知と共に給料がとまったので,配給物もとれないことがしばしばで,生活の悲惨さは言語に絶するものがあった。男三人,女三人の六人家族で,……(中略)……インフレが進む中で,月収もない,恩給もない,全く,木から落ちた猿の生活で,なすことを知らない毎日がつづいた。

 教材の売込に箱崎小学校に行った時,古宮佐源治校長が,昼食時だったので,『昼食を食べて行け』としきりにすすめるのをふり切って,伊達橋の下で弁当のふたをとったが,それは,豆腐からにねぎが三本と生味噌が少々であった。川の流れを眺めながら昼食をしたが涙の出るのが止らなかった。この同情は身にしみてわかるが,食を乞うことだけはしたくなかった。古宮校長は既に亡くなったが,この暖かい言葉は一生忘れられない。……(後略)」(『同前』141ページ,青木喜八郎執筆 ″終戦当時の教育 − 軍政府の教育管理″ − 明治百年福島県教育回顧録 − よりの引用部分)。

 ともあれ,歴史上の真実に裏付けられた「証言」というものは,凡百の,流行に操られた,ぼう大,さ末な事象が,次々と時代の推移の波に洗われて消失していくのに反して,ますます時代とともにその光輝と迫力を増していくものではなかろうか。       ( K )


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