福島県教育センター所報ふくしま No.80(S62/1987.2) -036/038page

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随   想

誠  実  と  情  熱

学校経営部  境 野 啓 二


 教職33年になるが,その勤務地のほとんどが,F市を中心とする A 管内であった。その小生にとって,B管内,T郡M町への辞令を頂いた時は,新任地への期待感とともに未知の社会への不安感が入りまじっていた。その不安を和らげてくれたのは,多くの人々であった。

 「あの講座の時は,大変お世話になりました。」と声をかけてくれたY先生は,前回(昭和50年〜54年)教育センターに勤務していた時,学校経営講座に研修者としてこられた先生だ。研修する先生方のために,お役に立ちたいと夢中になってて働いたものだった。その先生から「センターの方々は,親切だった」といわれると全く恐縮してしまう。
 また,他の先生からは,「あの講座で勉強したことが役立っています。」といわれた時は,嬉しく本当にあれで良かったのだろうかと心配するとともに,本気になって,目標や教材分析にあたったり,曲りなりにも学習指導案を作成したり,講座時間で消化しきれなくとも,帰校後にでも役立つのではないかと資料を用意したり,そして,獲得したばかりの知識をもって野外巡検に飛び出したこと等がなつかしく思い出される。時間の空白が飛び去り,「お元気ですか,わたしの方こそ,お世話になりました。」と未知が既知にかわり,不安は一ペんに解消していくのを感じたものである。
 そして,足を任地にしっかりとふんばり,よくあたりを見まわして見ると知っている人が意外に多いことに驚くのである。お世話になったあの先輩の先生は,同郡の出身であるとか,かつて親しくしていただいた同僚のS先生は,隣町の出身で先生のお柿様が,前の部落に嫁いでいられるとか,世の中は,まことに狭いものであり,人のつながりを有り難く感じたものである。
 人には,それぞれ,その時その時,おかれた立場での事情をもつ。これに甘えることは許されるものではないが,その中で誠実に生き,誠実に心を交流させるべきではなかろうか。そこに人のつながりが生まれ,人間が育つのだと思う。そこで,座右の銘はと聞かれると「誠実」と答える。

 T郡で忘れてならぬ人は,沢山いるが,M教育長先生のことを忘れることはできない。
 実は,M町に赴任する時,前もって知っている人は,M先生だけだった。といっても,昔,同じ研究会に所属していたというだけである。
 M先生は,過去に大手術を受けられたことのある病弱なお方である。本来ならば,年金等で悠々自適の生活ができる人である。にもかかわらず,教育長の激務にあたり,教育にかける情熱はますます大きい。
 教育は,百年の計にある。21世紀に生きるM町の子どもの教育は,いかにあるべきか,非常に難しい問題である。M先生は,長年の教職を通して得られた経験のもとに,教育の本質を厳しく追究され,M町の教育の新しい方向づけに努力されておられた。小生たちは,ただ,M先生の御健康を念ずるばかりであったが,寸暇を見つけては,教員と,そして子どもたちと語りあわれた。そのお話の多くは,発想豊かな心をゆするものであり,夢を与えるものであった。そこには,年令も病気もなく,ただ情熱があるのみであった。
 豊かな発想,着実な計画,そして全力を傾注し,努力しつづける情熱が人々の心を動かす。そして若さを呼びおこし,精気を与えるものである。教育は情熱なくして成り立たない。 教育は,人に生きる力を与えるもの だからである。以来,「誠実」に加えて「情熱」を書くようにしている。

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