福島市勢要覧資料編 -003/031page
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福島のおいたち
■市制施行まで
福島盆地は海抜60メートル前後、周囲を山に囲まれ、 寒暖の差が大きい。南限、北限の作物が育つところであ り、古くから人々の生活が営まれてきた。約10〜13万年 前の旧石器時代に人々が住み始めたと思われ、宮畑遺跡 に代表される縄文時代さらに稲作りが盛んとなった弥生 時代、下鳥渡の稲荷塚古墳・八幡塚古墳に代表される豪 族の墓である古墳が造られた古墳時代と続く。そして、 東北地方最古の仏教寺院の一つである腰浜(こしはま)廃寺、さら に西原(にしはら)廃寺、また平安時代前期の大蔵(だいぞう)寺 千手(せんじゅ)観音とすぐれた仏教文化が残った。
やがて平泉政権の下に、信夫庄は佐藤庄司の一族に治 められてきたが、源頼朝の大軍に石那坂(いしなざか)合戦で敗れた。
この合戦に軍功をあげた中村氏は伊達郡を与えられて 伊達氏と改め、次第に勢力を拡張して、ついに17代政宗 は会津をも治める戦国大名に成長した。
しかし、太閤秀吉に屈して北に移され、その領地はすべて蒲生氏 郷(がもううじさと)に与えられた。氏郷は客将木村吉清に大森城を与えた(信夫の内 5万石)が、書清は杉目城(大仏城)に移って福島城と改めた。文 禄2年(1593)といわれる。
慶長3年(1598)信達地方は上杉景勝の領地となり、関ヶ原合戦 を経て米沢30万石に減封後も、約60年余り支配された。この間、西 根堰開さくによる新田開発や、桑や漆の植栽奨励などは、諸産業発 達の起因となった。
寛文4年(1664)に幕領となり、本多忠国(15万石)、堀田正伸(まさなか)・ 正虎(10万石)時代を経て、元禄15年(1702)からは板倉氏(3万 石)が福島城主として幕末に至った。
小藩福島の周辺には、幕領や他藩の分領が錯綜(さくそう)して配されたが、 信達の農民は特に養蚕業に精を出し、安永2年(1773)には「奥羽 蚕種(さんしゅ)本場」銘をかちとり、城下町はこれらの集散地の中心としてに ぎわいをみせ、商業の町として栄えた。
戊辰戦争によって板倉氏は去り、明治2年(1869)以降、福島町 は県北の小県から中通り県、そして明治9年(1876)には現形の県 の県庁所在地となった。明治14年(1881)甚兵衛火事で町の大半を 焼失したが、明治32年奥羽線の開通、日本銀行出張所(のちの福島 支店)の開設など、発展の基礎をかため、明治40年(1907)4月の 市制施行を迎えた。
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