わたしたちの町 飯野 小学校社会科資料集 - 034/048page

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きょうどにつたわるねがい

2.町の発展につくした人

●高橋達之助(たつのすけ)(1868年〜1953年)

高橋達之助
▲ 高橋達之助(40才)
1868年
1903年
1915年

1926年
1938年

1953年


(35才)
(47才)

(58才)
(70才)

(84才)

飯野村字町に生まれる。
飯野村長(そんちょう)となる。
伊達郡議会議員(ぎかいぎいん)に選(えら)ばれる。
電動式機織(はたお)り機(き)を取り入れる。
川俣線の完成(かんせい)に力をつくす。
蓬莱(ほうらい)ダム(飯野堰堤(えんてい))が完成する。
飯野堰堤公園(こうえん)の完成に力をつくす。
亡(な)くなる。
60才代の達之助(まん中)
▲ 60才代の達之助(まん中)
愛用した服
▲ 愛用した服
 飯野町は以前から絹織物(きぬおりもの)の産地(さんち)でしたが、馬車で松川まで運(はこ)び、そこで汽車に積(つ)みかえるためふべんでした。人びとは、絹織物を東京などに直接送(ちょくせつおく)るために、松川駅までの鉄道を望んでいました。高橋達之助は、人びとのねがいにこたえるため、国や県にはたらきかけ、川俣線の建設(けんせつ)に力をつくしました。
 また、町で働(はたら)く人びとの楽しみとして、共楽座(きょうらくざ)や飯野堰堤公園を作ることにも力をつくしました。
共楽座で楽しむ人々
▲ 共楽座で楽しむ人々(さかんなころのようす)
 中ではしばいや映画(えいが)が行われていました。
 当時(とうじ)しばいは人びとの一番の楽しみでした。
今も残る共楽座のたてもの
▲ 今も残る共楽座のたてもの (2003年撮影)
 昭和30年ごろには、そのやくわりを終えました。

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