かわまた -039/056page

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広町用水ができるまで

ア かにのこし沼

広さ40a,深さ7mで,いつだれが作ったものかはわかりませんが,はじめてこのあたりをきり開いた人達が作ったものといわれています。今では,雨がふらずに,川の水がなくなってしまった時に使われます。

イ 古い水路

八幡(はちま)川より高い広町ふきんに田を作るため,明治の中ごろ八幡川の中腹に用水路を作って「かにのこし沼」から水をひきました。ところがその用水路は水もれがはげしくじゅうぶん水を田にひくことができませんでした。
広町用水と八幡川の高さを横から見た図
ウ トンネル工事

明治35年に,村の人達はお金を出し合い,石屋さんにたのんで,高さ1.5m,はば1mたらずのトンネルを,東がわと西がわからほって,つなぎ合わせることを考えました。しかし,かたい石のところが多くうまくいきませんでした。
それから7年後の明治42年(1909年)に佐藤喜一郎(さとうきいちろう),作田寅三郎(さくたとらさぷろう),菅野善右衛門(かんのぜんうえもん)の3人が中心となり,村の仕事として工事をしました。
工事は見事に成功し,120mもあるトンネルを水が通って水にこまることがなくなりました。
なお,工事にかかったお金は,今のお金になおすと約1000万円ぐらいです。

用水路のくふう

用水路に水を流したい時は、手前の水門を
閉じます。そうすると、水がたまってむこうが
わの小さなあなに水が流れます。こうすると、
土などが流れ込まないそうです。よく工夫していますね。
エ 広町用水ができて

広町用水のおかげで水田が広がり,米のとれ高も多くなりました。昭和29年には,用水路のセメント工事ができあがり,広町ふきんの田は,福田地区一番のよい田になりました。


広町用水のおかげで,水田が広がり,米もたくさんとれるようになりました。
広町用水ができて


トンネルの水が通ったとき,村の人達は,どんなにうれしかったことでしょうね。その場所に出かけて,当時のようすや人々の気持ちを想像してみましょう。

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