かわまた -040/056page

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2)勘左関(かんざせき)のようす −仁井町−

勘左関 下から見た勘左関
▲下から見た勘左関
城の外堀
▲城の外堀
上から見た勘左関
▲上から見た勘左関(左下に水門が見えます。)

ア 勘左関のおこり

戦国時代のころ,舘(たて)の山に河股城(かわまたじょう)があった時,安田勘左衛門(やすだかんぎえもん)という人が,今の川俣南小学校のわきの広瀬川をせきとめ,城をとりまくほりを作ったといわれています。
その時はたらいていた人たちは,それぞれの家から人夫として毎日出てほりを作ったそうです。
広町用水ができて
▲広瀬川改修後の勘左関の様子

イ 勘左関から水をひく

まわりの土地は,広瀬川より高く,すすきのはえるあれ地でした。しかし勘左関から水をひくことによって,日和田,五百田,八反田あたりにたくさんの田を作ることができました。

ウ 用水路のその後

平成7年,広瀬川の改修(かいしゅう)工事が終わり,勘左関は、新しいすがたになりました。今は農業用水としては使われてはいません。

=まめ知識=
     ・日和田・・・日のよくあたる水田
     ・五百田・・・500束(そく)とれる水田
         (1束とは1たばで,かぶらが7〜8つ分)
     ・八反田・・・広さが八反歩(ぶ)ある水田



今は,すがたかたちがずいぶん変わってきているけど,そのほりが今でも残っているのかな。それに,そのあたりまでのびているのだろう。

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