ふるさと川俣の名山 -089/104page

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る城を必要としたからであろう。

 伊達政宗は天正13年8月、川俣に陣を取り9月に岩代の大内氏を攻略し、翌14年4月、二本松の畠山氏を滅し天正17年には会津を征して奥州のほとんどを征するに到った。しかし翌18年、秀吉の奥州仕置によって会津を含め領地の南半は没収され、その地は慶長3年(1598)上杉景勝が領有した。同年、秀吉が没すると徳川家康と石田三成の反目が表面化し、家康側についた政宗は三成に与した上杉景勝を背後からけん制するため、同5年6月24日、白石城(宮城県)を攻めた。

 同じ頃、相馬駒ケ峯城主桜田玄蕃基親(資親の子)は伊達に侵入し、河股城を攻落し飯野、秋山、大波、小島を焼払い大館に陣を取ったが、24日河股城に引寵って戦い最後は城を開けて駒ケ峯城に帰った。この陽動作戦は図に当り梁川、福島の上杉勢は基親の行動に釘づけされ白石救援に赴くことができず、政宗は白石城を手中に収めることができた。河股城は政宗の度々の合戦、あるいは作戦の重要な要として機能していたといえる。基親は元和元年(1615)、政宗の庶子秀宗の伊予宇和島入部に従って駒ケ峯城を去っていった。

二の丸跡は憩いの場
二の丸跡は憩いの場

● アクセス

 トンネル東口、及び川俣町体育館登山口へは、福島交通バス、JRバス東北とも、「役場前」もしくは「京田」下車


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