わたしたちの町 桑折 - 050/053page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

3.きょう土を開いた人々

(1) 西根堰

西根堰はどこにあるのだろうか
いつ、だれが中心となって、どのようにつくられたのだろう

@用水をつかって水をひく

 むかし、伊達郡は、いくつもの村々に分れていました。そして、あぶくま川を境(さかい)にして、東の方(伊達の一部、保原、梁川)を「東根郷(ひがしねごう)」といい西の方(飯坂、桑折、国見、五十沢、大枝)を「西根郷(にしねごう)」とよんでいました。

 西根郷は、土地そのものはこえていましたが、あぶくま川より土地が高く、水をひくことができませんでした。そのため、水の便が悪く、水不足のため、たえず農民はひでりの害に苦しみ、水田の開発もおくれていました。

 そのころ西根郷は、上杉(うえすぎ)氏の領地(りょうち)になっていましたが、1600年関(せき)が原(はら)の戦いがあり、上杉(うえすぎ)氏が豊臣(とよとみ)側についたために勝者である徳川方からにらまれ、領地(りょうち)は120万石(まんごく)から30万石(まんごく)にへらされてしまいました。しかし上杉氏は家臣をへらさなかったため、藩は大変苦しくなり、いっそう開こんにはげまなければならなくなりま

西根堰はどこにあるのだろうか 摺上(すりかみ)川・産ケ沢(うぶがさわ)の高さと西根郷一帯の土地の高さ

古川善兵衛重吉(ふるかわぜんべえじゅうきち)・佐藤新右衛門家忠(さとうしんえもんいえただ)

現在の下堰の取入口(飯坂町)
現在の下堰の取入口(飯坂町)

かんがいされた広々とした水田(伊達崎地区)
かんがいされた広々とした水田(伊達崎地区)


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は桑折町教育委員会に帰属します。
桑折町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。