伊達町町勢要覧 -025/030page

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義民斎藤彦内の墓
 寛永2(1749)年の大冷害は、この地域にも大きな被害を及ぼし、信達68ヵ村では桑折代官に年貢軽減を懇願しました。しかしこの願いは許されず、実に16,800人もの農民が団結して代官に立ち向かう大百姓一揆へと伸展。騒動後、斎藤彦内、蓬田半佐衛門、猪狩源七らは、一揆の首謀者として処刑されました。この話は後世にまで語り継がれ、明治40年朝日新聞に連載された「天狗廻状」(半井桃水著)により、広く全国に知られるようになりました。本町の福源寺には“義民”と刻まれた石碑と共に、斎藤彦内の墓が残っています。
義民斎藤彦内の墓


福厳寺(ふくごんじ)六地蔵と宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 宝篋印塔は、石工の町・信州中村の石工師が宝暦13(1763)年に制作したもの。六地蔵もほぼ同時期の作と見られ、共に価値ある石造工芸品として大切に残されています。
福厳寺六地蔵と宝篋印塔


水雲神社献額絵馬
 文久2(1862)年、水雲神社が再建された時に奉納された絵馬六幅ほか、菊田臨史軒の貴重な歌額二幅が献納されています。
水雲神社献額絵馬


西念塚
 寛文8(1668)年、摺上川の氾濫に苦しむ人々を救わんと、捨身入定した西念上人を悼む碑が建っています。また、西念塚には樹齢約330年の大けやきがあり、県の緑の文化財に登録されています。
西念塚


福厳寺両界曼荼羅(ふくごんじりょうかいまんだら)
 江戸中期の作と言われる曼荼羅で、胎蔵界と金剛界の二幅からなります。裏には「明治十七年法印祐諦代 表具換」と記されています。
福厳寺両界曼荼羅


伏黒河岸寄蔵(かしよせぐら)
 寛文年間(1660〜1672年)阿武隈川畔10ヵ所に寄蔵(河岸蔵)が置かれ、信達地方の年貢米が収納されていました。その中で、唯一現存しているのが、この伏黒河岸寄蔵。江戸期の産業・交通の様子もうかがい知ることができる貴重な文化財です。
伏黒河岸寄蔵


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