町勢要覧(合併前の伊達町) -045/051page

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 (3)義民斉藤彦内の碑

碑は当町田町に所在す。彦内は当町字下志和田の農民であった。
寛延年間の頃当地方は打続く大凶作のため農民は極度に難渋した。当時桑折代官神山三郎右エ門は、人民の塗炭の苦しみを意に介せず遊蕩に耽りその上7割増の納貢を布し、納貢のおくれた場合は水牢に処する旨の制札を出した。
この暴挙に憤激した120ヶ村農民代表斉藤彦内(長倉)、猪狩源七(鎌田)、蓬田半左エ門(伊達崎)の3名は、軽減方を陳情したが容れられなかったので、遂に農民大挙代官所に押かけ直訴したが、仙台、福島、米沢各藩の援兵によって鎮圧された。
そのとき彦内は逮捕されて入牢、拷問を受けて共謀者の自供を迫られたがその責任を一人で負い寛延3年4月17日極刑に処されて梟首に付された。とき享年42才であった。
この彦内の義心に感激した農民は、頌徳碑を建立したが、代官は命じて碑文の半分を抹消せしめた。その碑が当町志和田福源寺境内に現存している。
その後崇高な彦内の義侠心を農民の鑑として永く顕彰するため、地元民と福島日々新聞社が協力して、大正7年年上逑の碑を建立した。

 (4)大銀杏樹

当町字広前にあり周圍41尺余樹令800余年といわれる。むかし八幡太郎源義家が、東北地方鎮撫のため当地遠征のとき、附近一帯河川であったこの地に銀杏樹の枝を折って、舟繋ぎの杭としたものが生育したものと伝えられている。
なお、鬱蒼と茂っていた樹幹が昭和29年9月14日台風のため中間部から折れ負傷者を出したので、今後の危険発生を考慮管理者において枝葉を整理した。

4.名 物

 りんご.もゝ

信達地方有数の生産地にして集荷の主要地である。
もともと当地方は養蚕業甚ださかんであったが、戦争を契期に需用度の低下に伴い、果樹栽培に転換異状の発展を遂げた。
現在りんご25町歩、95千貫、もゝ5町歩余16千貫に達し、関東、関西を主に北海道に出荷される外中南方方面にも商談が成立搬出されている。
又缶詰工場の誘致により販路が拡大されされえたため、年々改良増産の現状である。


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