わたしたちの伊達町-053/068page

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(8)くらしのうつりかわり

○すまい

伊達町は、昔から養さんがさかんでした。そのため、空気の出入りのよいわらぶきやかやぶきの屋根のしかも大きい家が多くみられました。でも、40年ほど前からは、かいこをあまり飼わなくなったことや、火事を防ぐことなどから、かわらやトタン屋根の家がふえてきました。
養さん農家
養さん農家

○食べ物(農家の例)

おじいさんたちの小さいころは、ふだんは麦ごはんが主でした。ときには大根を入れたごはんを食べる家もありました。おかずは、つけもの、塩ざけ、ニシンなどでした。なま魚はお客が来いわたときとか祝い事でもないと食べませんでした。ほとんど自分の家で作ったものを食べました。しょうゆやみそなども自分の家で作りました。しょうゆのかわりに、みそにたまるみそだまりを使っているところもありました。

○ふくそうとはき物

おじいさんたちが学校にかよっていたころは、着物で、下着も全部自分の家で作ったものでした。お祝いの日には、はかまをはきました。洋服を着始めたのは、今から70年ほど前で、それもわずかの人たちだけでした。はき物は、げたやわらぞうりで、冬はわらぐつ、おそふき(つまのあるわらぞうり)で、わらぞうりやわらぐつは、自分の家で作ったもので
した。くつをはき始めたのは、洋服を着始めたころとほぼ同じです。

○のりもの

伊達駅(できた当時は長岡駅でした。)ができたのは100年ほど前で、伊達駅前には、人力車が集まっていました。軽便鉄道が福島一長岡(伊達町)一湯野の間を走ったのは、伊達駅ができてから15年たった1907年でした。軽便鉄道はたいへん便利でしたが、力が弱く坂を登ることがてきなかったり、石炭をたくため火の粉がとんで、火事をおこしたりしました。そのため、15年ほどで電車にかわりました。

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