○東根ぜきのあらまし
むかし、東根の人びとは、水が少なく田畑があれてこまっていました。今から、およそ400年前(1600年ごろ)東根郷のせわ人渡辺新左衛門、据江与五右衛門と土地の人びとが力を合わせて、広瀬川(泉原)から水をひく工事をはじめました。このせきは、「砂子ぜき」とよばれ、およそ300年間、なおしたり、箱崎から阿武隈川の水をくみあげるなどのくふうをして、田畑の収かくをあげてきました。
1933年、信夫発電所のところがら、阿武隈川の水を取り入れる計画を県の仕事としてすすめられ、1944年に完成しました。その後、1952年改修工事がはじめられ、/961年完成しました。
人びとのねがい できあがり
○西根ぜきのあらまし
西根の村むらは、畑が多く田が少ないところでした。1618年桑折の佐藤新右衛門が米沢藩のゆるしをうけて、摺上川の十綱橋1q下のところから水を取り入れました。(下ぜき)1624年古河善兵衛、佐藤新右衛門がせわ人となり、摺上川の水を穴原から取り入れる仕事をはじめ、1632年完成しました。(上ぜき)トンネルをほったり、かたい岩をけずったりするのでくろうしました。用水ろの流れはゆるやかで、そく量には、「ちょうちん」をたてて信夫山から見て、土地の高さをはかったといわれています。
上堰(湯町)
上堰(といごし)水ろ立体交さ
上堰(湯野)街地下に入る