伊達町指定文化財-007/007page

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位置と地勢

伊達町位置図

●位置図
伊達町は、福島市の北に接し、福島盆地のほぼ中央に位置する面積9.22q・人口10,740人の町で、人口密度は高い。
町の中央を阿武隈川が貫流し、南には阿武隈山系に連なる丘陵地帯愛宕山(標高114m)があるが、その他は沖積層の平坦肥沃なる地形に恵まれている。
川東地区は、桃・リンゴ等の先進果樹地帯、」西地区は、早くから工場等が立地し商工業地帯として栄えている。また、東北本線・東北新幹線・国道4号線が町を縦貫し、国道399号線が東西に走り、県北交通経路の中心となっており、文化・商工農一体の町として発展を続けている。

伊達の歴史
伊達町における人類生存の痕跡は古く、金秀寺遺跡出土の遺物などから、縄文時代の中期にさかのぼる。
古墳時代の遺構は現存しないが、かつて伏黒村の自然提上には円墳群があり、蕨手刀が出土したとの伝えがある。
古代のこの地方は、陸奥国の信夫郡に属し「伊達郷」と呼ばれた。8世紀ごろ,信夫郡では条里制による開田がすすみ,湯野条里の一部は町の西部におよび、伊達窯跡群では須恵器が焼かれていた。/0世紀ごろになると伊達郡は信夫郡より分立し、古代末期には奥州藤原氏の支配下に置かれた。
文治5年(1189)奥州合戦の戦功により、源頼朝から伊達郡を賜わった中村朝宗は、常陸国よりこの地に移住し伊達氏を称するようになる。そして南北朝の動乱期には南朝方として活躍、奥羽の南部に勢力を扶植し、応永年間(1394〜1427)には、伊達大善大夫政宗と長倉入道は、桑折赤舘と長倉舘に拠って,足利満兼の大軍と激戦を交えている。伊達氏の家臣である石田氏の箱崎大舘や、岡舘が築かれたのも、鎌倉から室町時代にかけての時期であり,岡村には天文3年(1534)伊達植宗の子息清三郎の入嗣した修験(山伏)極楽院がある。
近世初期、豊臣秀吉の奥羽仕置により、伊達政宗は天正19年(1591)大崎岩手山城に移り、この地は蒲生氏領となり、次いで寛文4年(1664)までは上杉藩の支配下に置かれた。この時期以降、伊達町の村々は幕領・福島藩(本田・堀田)・仙台藩預領・三河国刈谷藩(土井)領など、支配の変遷と分割を繰り返しながら明治維新を迎える。この間、元禄14年(1701)から寛延2年まで、信達両部の幕領93ヶ村を支配する代官所が岡陣屋に置かれた。寛延2年(1749〕代官所は桑折に移されたが、この年、桑折代官の暴政に抗した、長倉村の斎藤彦内らによる信連大一揆が起っている。
近世のはじめ頃より発展をみたこの地域の養蚕・製糸業は、幕末期に入り蚕種・生糸の全国的な供給地へと成長し、安永元年(1772)の「蚕種改め」で伏黒・長倉村の蚕種は幕府から「本場種」の呼称が許されている.また文化11年(1814)の『蚕飼絹篩大成』には「奥州福島にて例年初糸六月十四日大市あり……諸国を見尽すに斯のごときの現銀太市は決して有まじく」と、長岡天王祭糸市の盛況さが誌されている。慶応2年(1866)には、信達両部の百姓が諸物価引下げ等を要求、天王市の日を期して世直し一揆を起し、各地で打殺しが行われた。
明治維新後の伊達町は、中村藩民政取締桑折県'刈谷藩の支配となるが廃藩置県によって福島・刈谷・舘の諸県に所属、のち統合されて福島県の管轄となる。明治9年長倉村と岡村は合併して「長岡村」となり,同22年には伏黒一箱崎一小幡・中瀬の4ケ村が合併して「伏黒村」が成立する。明治2口年には東北線が開通し、同28年長岡〔伊達)駅が開設され、両州年には長岡を起点とし,伊達の主要都市とを結ぶ軽便鉄道の設置をみている。また大正2年には、阿武隈川の鉄橋架設位置をめぐって,伊達郡を二分した伊達橋騒擾事件が起きている。
昭和/5年長岡村は町政を施行し「伊達町」と改称、同25年には伏黒村から小幡と中瀬が分村して保原町に編入した。昭和31年伏黒村は伊達町を編入して「伏黒村」となり、翌32年に町制を施行し「伊達町」と改称,現在にいたっている。〔福島県史学会員 伊達町文化財保護審議会委員 菊池利雄〕

「伊達町指定文化財」平成4年12月発行 印刷(株)神尾印刷所



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