伊達町指定文化財-006/007page

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史跡
27.ろうまえの清水
−伊達町字岡前24−所有者梅津昭治
国道4号線から伊達町役場の方へ50m程入る国道399号線の南側にあり、養蚕業が盛んであった頃、この泉の水で「糸取り」をした。(昭56.2.18指定)

28.阿武の松原碑
−箱崎字原町−管理者原町町内会
昔、阿武隈川は箱崎を西から東に流れていたが、今の原町辺りは川の南岸で東西に長い松原になっていた。景勝に富み、わが国三松原の一つとされ、金葉集(1127)に、みちのくの思いしのぶにありながらこころにかかるあぶの松原 太宰太弐長実とよまれている。(昭56.2.18指定)

29.西念塚及び文書(一括)
−伊達町字川原町106−管理者西念塚等保存会
西念塚及び文書(一括)
寛文8年(1668)摺上川の氾らんで苦しんだ村人を救うため捨身入定した西念上人の碑と弟子浄心が書いた文書及び大けやきを指定した。(昭56.2.18指定)
大けやきは樹齢約300年、樹の高さ32m、幹回り4.7m昭和58年3月県緑の文化財第53号に登録された。

30.岡陣屋跡
-伊達町字岡前及北畑-管理者伊達郷土史研究会
徳川幕府の領地を天領といい幕府は代官をおいた。岡陣屋は元禄14年(1701)から寛延2年(1749)までの49年間の代官所で宝永7年(1710)には信達93か村を治めた。陣屋のあった場所は、現在稲荷神社がある。昔、周囲は堀、西には土塁を築いた跡みられ、東側は崖をなしている。(昭56.2.18指定)

31.義民斎藤彦内の墓及び文書(一括)
-伊達町字下志和田福源寺-
義民斎藤彦内の墓及び文書(一括)
寛延2年(1749)の冷害は「田方立毛青立」(田畑の作物が実らない)と記録された凶作となった。
信達68村は桑折代官に年貢軽減を願ったが、許されず16,800人の農民が減免と延納を強訴した。後世「天狗廻状騒動」といわれる。騒動終了後、斎藤彦内・蓬田半左衛門・猪狩源七の三人は首謀者として処刑された。
この物語は明治40年半井桃水によって朝日新聞に連載され天下の血を沸かしたという。(昭47.3.13指定)

32.冨田洋々亭筆塚
-伏黒字観音林平観音堂境内-管理者冨田家一族
安政3年(1856)、冨田洋々亭の門人達が、師洋々亭の筆を埋めて頌徳碑を建てたもので、碑文を熊坂定駿が撰している。(昭56.2.18指定)

33.小野平次郎顕彰碑
−箱崎字愛宕山下−管理者小野家一族
明治初期の箱崎、箱石瀬は、阿武隈川・摺上川の合流地点で、雨季になれば河川は氾らんし、濁流は道路をくずし、洪水もたびたび起った。
小野平次郎・トキ夫妻は明治10年から18年までの10年間、水害を防ぐための石の堤を築き、遂に完成させた川除の功労者である。堤の高さ2〜5m、長さ140mに及んだが、胡桃川改修によって形跡はない。顕彰碑は昭和53年12月再建された。(昭56.2.18指定)

34.修験伊達家極楽院旧跡
-伊達町字中畑37桑原悪家-
極楽院は中世から近世にかけて信達地方の修験(山伏)の総括を行った旧跡である。現在は桑原家が祖父鐸木三郎兵衛氏(元福島町長)から譲り受け居宅になっている。内部は少し改造されているが、戸には熊坂適山の画、旧護摩堂の跡もある。(昭56.2.18指定)

35.修験伊達家極楽院墓碑
-伊達町字広前2金秀寺境内-管理者伊達郷土史研究会
極楽院の開祖は伊達家一族で、14世植宗の子清三郎宗栄が、天文3年(1534)極楽院善栄の養子になることに始まる。墓碑は延宝・元禄から文久3年(18b3)までが保存されている。墓碑は院跡南東の畑の中にあったものを昭和53年現在の場所に移した。(昭56.2.18指定)


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