わたしたちの梁川町 社会科しりょう - 050/086page 

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X きょうどにつたわるねがい

1.きょうどをひらく

(1) 砂子堰(いさごぜき)と東根堰(ひがしねぜき)

 伊達地方は、広い平地にめぐまれながら、山から流れでる川が少なく、水不足のために、たえず農民(のうみん)はひでりの害(がい)に苦(くる)しみ、水田(すいでん)の開発(かいはつ)も遅(おく)れていました。
梁川が上杉氏(うえすぎし)の領地(りょうち)となった1598年(慶長(けいちょう)3年)ごろから水田(すいでん)の開発(かいはつ)がすすめられるようになりました。
 まず、上杉氏のけらいで村役人だった、梁川の堀江与五右衛門(ほりえよごえもん)と保原の渡辺新左衛門(わたなべしんざえもん)が藩(はん)の許しをえて、その年に砂子堰(いさごぜき)の開削(かいさく)にとりかかり広瀬川の水を取り入れ、梁川から保原の方までひく計画をし1604年(慶長9年)に延長(えんちょう)15キロにのぼる水路を完成させました。
砂子堰(いさごぜき)と東根堰(ひがしねぜき)

〈工事の様子〉
工事は大変難(むずか)しく東根山麓(さんろく)の段丘(だんきゅう)をうまく利用して、新田(にった)から上保原まで南流(なんりゅう)(押し上げる形となる)させるという工事をやってのけたのです。水の取入ロも現在の山野川地内(やまのがわちない)に決まるまでは何度も変えていますが村の人たちはこうした努力と工夫に対して「伊達の逆水(さかさみず)」と呼(よ)んで称賛(しょうさん)を惜(お)しみませんでした。

〈用水路の完成〉
用水路の完成によって、新田が開かれ灌漑区域(かんがいくいき)は15村700ヘクタ-ルにも及(およ)びました。その後、70年たった1674年(延宝(えんぽう)2年)に堰の大修理(だいしゅうり)を行いました。そして、この工事の時に時間通水制度(つうすいせいど)という方法を使いました。これは下郷(しもごう)(堰本や梁川など)が3日半・上郷(かみごう)(大田や保原など)が4日半ずつ交代で水を引くという方法でした。その決まりには、樋(とい)の大きさ、通水時間や面積、水持の悪い田への常時通水(じょうじつうすい)、堀江氏(ほりえし)へのお礼用樋など細かいきまりが書かれていました。


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