わたしたちの梁川町 社会科しりょう - 059/086page
(3) 先人のかつやく
中村 善右衛門(なかむら ぜんざえもん)(1809〜1880)中村善右衛門が生まれたころの梁川は、農の大部分の人が養蚕(ようさん)にたずさわっていて、蚕(かいこ)を「蚕殿様」(こどんさま)とよんでいました。
生糸(きいと)は高い値段(ねだん)で取り引きされ、梁川町の繭(まゆ)は、徳川幕府指定(とくがわばくふしてい)の品で質が良い悪いは農家にとっては大変なことでした。
そのころの養蚕飼育(ようさんしいく)の方法は、気候(きこう)の変移(へんい)に左右される清涼育(せいりょういく)という方法が使われていましたが、蚕室(さんしつ)を暖(あたた)める温暖育(おんだんいく)が理想(りそう)とされていましたが、その温度管理(おんどかんり)は、人のカンに頼(たよ)らなければなりませんでした。そのために失敗も多くありました。善右衛門はなんとか蚕室の温度がうまくはかれるものはないかと考えていました。ある日、風邪(かぜ)と疲(つか)れでねこんでしまいました。
蘭方医(らんぽうい)は善右衛門の熱(ねつ)をはかるために、善右衛門の脇(わき)のしたに体温計をはさみました。
「これだ。これをつかえば蚕室の温度がはかれるのではないか。」
病気も忘れて叫(さけ)びました。これをヒントにして7年におよぶ研究の結果、蚕当計(さんとうけい)を完成(かんせい)したのです。江戸時代の最期になると、蚕当計を使用することにより、蚕室の温度調節(ちょうせつ)ができるようになりました。それによって繭の品質(ひんしつ)がよくなり生産(せいさん)が安定するようになりました。