努力の人信夫山-007/008page

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うに過ぎた体は、若いときに無理を重ねたせいもあり、もうボロボロになっていた。力士としての限界を感じた信夫山は、ついに引退を決意した。大関への昇進こそ果たせなかったが、技能賞六回、殊勲賞一回、敢闘賞一回という見事な成績を残しての、堂々の引退である。
 引退した信夫山は、山響親方となった。自分の部屋を持ち、若い力士を育てるのが次の目標だった。しかし、病のためにその目標を達成できないまま、保原町が生んだ努力の力士、信夫山は、昭和五十二年、五十二才で一生を終えたのである。
 すもうが行われる国技館では、今でも信夫山をなつかしむファンがいる。
 「信夫山の、もろ差しから一気にせめるあのすもうをもう一度見たいものだ。」
 「新横綱若乃花を破ったあの一番は、本当に見事だったなあ。」
 もろ差しが得意だったことから、「リャンコの信夫山」として親しまれた信夫山の活躍とすもうのうまさは、今もこうして語りつがれている。しかし、そのかげにあったきびしいけい古を知る人は少ないかもしれない。
 ◇大けがをしたり、くじけそうになったりしながらも、信夫山が最後まで努力を続けたのはなぜだと思いますか。
 ◇関脇として引退した信夫山に、あなたはどんな言葉をかけてあげたいと思いますか。


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