りょうぜん 小学校社会科資料集 -038/056page

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(1)きょうどを開いた人びと

砂子堰(いさごぜき)

 今(いま)もむかしも「米作り」で一番大切なことは、じゅう分な水がある かどうかです。わたしたちの先祖(せんぞ)は、むかしからずっと知恵(ちえ)をしぼり、 近所の人々と協力(きょうりょく)し、用水路やため池などを作ったのです。

農民
 霊山町(りょうぜんまち)の泉原地内(いずみはらちない)の広瀬川(ひろせがわ)から水を引 いて、梁川町(やながわまち)や保原町(ほばらまち)まで水を流す砂子 堰は田に少しでも水を引くため苦労(くろう)して 作られたんだよ。(1604年ごろ)梁川町(やながわまち)の 堀江与五衛門(ほりえよごえもん)と保原町(ほばらまち)の渡辺新左衛門(わたなべしんざえもん)が 中心になったんだ。でも晴天が続くと川 の水がなくなり水とりのケンカが起きた そうだよ。

老人
 自分の田をまもるため「水当番(みずとうばん)」を作 り、たくさんの人々が田畑の仕事の他に、 水の世話もしたよ。少しの雨でも砂子堰 の土手(どて)はくずれて、それを直すのも自分 たちだったから、たいへんな手間がか かったんだ………。


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