つきだて−社会科しりょう−-052/067page

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 月舘町は、人々が住みやすい町、豊かな町にするため、むかしの人々がいろいろなく ふうや努力をしてきました。

1.さいがいをふせぐためにかつやくした人々

(1)高原藤兵衛
 高原藤兵衛は、慶応(けいおう)年間に名主(なぬし)をつとめましたが、それを引退(いんたい)すると御幸山(ごこうぜん)の中腹(ちゅうふく)を開墾(かいこん)して 桐山(きりやま)にするという計画の実現(じつげん)に力をそそぎ、その途中(とちゅう)で亡くなった人です。もし、完成(かんせい)していれ ば、御幸山(ごこうぜん)はとてもきれいな宝(たから)の山になっていたことでしょう。御幸山の杉林(すぎばやし)になっている辺り は、彼の住んでいたところの後で、南西(なんせい)のほうにある土盛(どもり)は泉(いずみ)の中の島であったといわれていま す。テレビ中継塔(ちゅうけいとう)への道路工事で弓(ゆみ)の練習場はこわされましたが、今はその石垣(いしがき)の一部がみられ ます。また、ここから下る道には石垣(いしがき)が残(のこ)っており、そのはずれには観音堂(かんのうどう)を作る予定であった という平らな土地も残されています。道の南側(みなみがわ)の平(たいら)らな土地は、馬を走らせたところのあととい われています。このように彼の屋敷(やしき)あとをみるだけでも、大きさがわかります。開墾(かいこん)が大変な山 の中に、お金をかけて桐の植林(きりのしょくりん)という気の長い事業にがんばった彼は、月舘の開拓史(かいたくし)のなかでも 忘れられない人といえます。

(2)古屋の亀松
 上手渡(かみてど)の古屋地区は昔(むかし)から山津波(やまつなみ)がありました。とくに約170年前の文政(ぷんせい)13年のお盆(ぼん)におこ ったものはとても大きく、三日間ふりつづいた雨のため、土砂崩れ(どしゃくずれ)となり、家が3軒流され、2 人の人が死に、畑や水田は大きな被害(ひがい)をうけました。ここに住んでいた百姓(ひゃくしょう)の亀松(かめまつ)は、なんとか しなければ、と考え、当時日光(にっこう)にいた日本でも有名な二宮尊徳(にのみやそんとく)に、そのひどさをうったえ、どうしたらよいかききました。それをきいた二宮尊徳は亀松の気持ちをわかってくれて、植林を勧(すす)めてくれました。そのため、亀松は古屋に帰ってから植林をして、山津波(やまつなみ)をふせぎ、その後澤衛(さわえ)門 と名前を変えて、苗木屋(なえぎや)となりました。


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