月舘町伝承民話集 -145/200page
皇后が何故こんな地方に来られたかについては、崇峻天皇5年11月13日寝殿に於て蘇我馬子の家来、帰化人東漢駒に背中より一突きに刺されて殺された。ときに蜂子皇子32オ。この皇子が居る限り馬子は枕 を高くして眠る事は出来ない。蜂子皇子の命は風前の灯である。父天皇の葬儀も何も考える暇なく、その夜 の中に従者3、4名と馬で飛島を脱出した。(峰子皇子伝記)然し蜂子皇子の行く所、身をかくすところは常 陸、越後より西の地域には全くない。ただその当時東国(今の福島、宮城より東北の国)は大和朝廷の支配を 受けなかったので、この東国だけは蘇我氏の権力も及ばなかった。逃避するところは東国より外になかったのである。
小手姫は東国に逃れた蜂子皇子と一緒に平和な生活を望んで止まなかった。ために実父大伴糠手も老躯に 鞭うって娘や孫の行先の落ち着きを見届けるべく同行する事になったのであろう。また大伴糠手としての旅 行が危険だったから秦峯能と名を替えたのである。この地方に残る濫觴記や地理誌に、あるいは古書に蚕神 機織神の縁起に出て来る秦峯能は大伴糠手の世を忍ぶ替名であるとも記している。ではその当時の旅という のはどんなものだったろうか。もちろん今の様に紙幣とか通貨はない。これら通貨の出来たのは和銅年間で、 元明天皇の御代小手姫より約120年もの後である。旅をするにはみな物であって、例えば珍しい織布とか器物とかの品物であり、更に高貴の方々の食器とか着替えの様な品物となるとそれだけでも相当の量であった ろうし、その費用だけでも数多の人夫を必要としたのであろう。更にこうした方達の一日の旅程はどの位歩 かれたろうか、筆者は1日2、3里位ではなかったろうかと推測しているが仮りに常陸から来たとして30 里、雨風の日もあったとすれば12、3日は掛かる事になり宿の礼食事の代まで品物となるとそんなに多人